Ⅶ-Ⅲ 一海の疲労と弥生の発言
男性の台詞は、さっき弥生から聞いた禅二郎の台詞ほぼそのままだった。
お笑いのネタの『天丼』がこういうものだった、と一海は連想したが、しかし目の前の男性はふざけているようには見えない。つまり――
弥生が一海の袖をぎゅっと掴む。その手は震えていた。一海自身もよくわからない不安と恐怖に襲われ、手のひらや背中に冷たい汗を感じていた。
一刻も早くここを離れた方がいいと本能的にわかっても、足が思うように動かない。
「一海くん! 下がって!」
その声が一海を押した。弥生の手を取り、弾かれたように数メートルダッシュする。禅二郎と距離を取ってからやっと声のした方を振り返る。
「寧々さん? どうして?」
いつの間にか寧々が、禅二郎を睨みつけながら歩道の真ん中に仁王立ちしていた。
「速やかにここから離れなさい。あんたたちがいなければこの人は大人しく帰ってくれるから」
しかし一海は食い下がる。
「でもこの前は月光さんと二人掛かりだったって……」
すると寧々が驚いた顔で一海を見、次に弥生に視線を移す。
「え……あなた?」
「あの、ごめんなさい。話しちゃいけないことでしたか?」
弥生は寧々の形相にうろたえていた。
「いや……大丈夫。そうじゃなくて、えっと、今日は秘密兵器を持っているからあたし一人でも平気ってこと。だから早く事務所へ向かいなさい。走らずに、早足でね。一海くんも、わかった?」
口調は優しいが、寧々の視線は有無を言わせぬ迫力があった。一海はこくこくと何度もうなずき弥生を引っ張ってその場から離れる。
「振り返っちゃ駄目! そのまままっすぐ行って!」
寧々の声が追い駆けて来る。その時まさに振り返ろうとしていた一海は、見透かされている気がして改めて前方だけに意識を集中して歩き続けた。
せめて通行人の反応でわからないかと周囲に視線を走らせてみるが、特に変わった様子もない。他の人たちには見えていないのかも知れない。さっきの自分のように。
そう考えるとまた一海の背筋に悪寒が走る。
「あの人、何者なの?」
もう寧々たちには聞こえないであろう場所まで離れてからようやく、弥生は小声で問う。しかしそれは、一海に、というよりも独り言のように聞こえた。
「よくわからないけど、寧々さんがああ言うんなら、きっと従った方が正しいんだ……多分」
今までそんな風に考えたこともないのに、一海の口からは当然のことのように言葉が出て来た。
BWエージェンシーの窓が見えた頃には、一海は全身にずしりとしただるさを感じていた。プールから上がった時に似ているが、プールの心地よさとは全然違う、重苦しい疲労感。
ビルの細く急な階段を一歩一歩、ゆっくり踏みしめるように上り始めた一海たちの耳に、ピアノの旋律が届いた。
「サティね……」
弥生がつぶやく。一海にはそれが曲名なのか作曲家の名前なのかわからない。
ブザーを鳴らし、声を掛ける。
「カイルさん、あの、一海です。寧々さんとここで待ち合わせしていて――」
「おう」と、やはり短い返事だけが返って来る。
「失礼しまーす……」
一海はそう言いながら真鍮製のドアノブを回す。後から弥生がおそるおそるついて来ている。よほど不安だったのだろう、弥生は右手で一海のシャツの裾をずっと掴んでいた。
ソファの上では、今日は白黒のはちわれ猫がくつろいでいたが、一海たちが来たのを見るとピンク色の鼻を数回ひくつかせてからソファを下りた。
やはりここの猫たちは行儀がいいんだな……と一海が考えている横で、弥生が猫を見送りながらほぅ、とため息をついた。
「なんだ少年。やけに疲れた顔をしているじゃないか」
今日も書類の山に埋もれているカイルが、隙間から声を掛けて来た。一海と弥生はぺこりと会釈する。
はちわれがカイルの足元でにゃぁ、と一声鳴いた。カイルはそれを聞いて「ふぅむ」と相槌を打つ。
「まぁ、寧々が戻って来るまでソファでくつろいでいてくれ。俺はなんのお構いもできないが……」
そう言って、カイルはカチリ、とライターを灯す。
一海と弥生が並んでソファに腰を下ろすと、間もなく昨日とは違う香りが漂って来た。
どこかで嗅いだことがある……と一海は考え、すぐに思い至った。月光が一海に渡した練り香のような『森の香り』だった。
――そういえば、あれはずっと部屋に置きっぱなしでつけていない。月光は確か「トラブルを回避する」と言ってた気がする。さっき遭遇した『わけのわからないモノ』も、あれをつけていれば回避できたのだろうか……と、一海は後悔する。
やがて、弥生が『サティ』と言った静かで不思議な旋律の音楽と、カイルが焚いた香とが相まって、一海と弥生はそのままうとうとし始めたのだった。
* * *
鼓笛隊が行進していた。その音で一海は目を覚ました。まだ夢うつつの間に、音を立ててドアが開かれる。
「ごめーん! 遅くなった! ただいま!」
快活に謝りながら、寧々が飛び込んで来た。一海は既視感を覚えた。と、やはり風が吹き込み、一海や弥生の髪をそよがせる。
「おかえり寧々。少年もそろそろ起きるかな?」
カイルが書類の隙間から様子を窺う。一海はきょときょと周囲を見回し、ようやく今いる場所を思い出した。鼓笛隊は夢だったが、既視感はどうやら現実だったらしい。
「寧々さん……あ、カイルさん、ごめんなさい。俺、いつの間にか眠ってて」
「気にすることはない。きみたちには休息が必要だった。そちらのお嬢さんはそれほどでもなかったようだがね」
笑いを含んだカイルの言葉に、一海は横を見た。弥生が膝の上で文庫本を広げている。
「横峰、起きたんなら、起こしてくれればよかったのに」
寝顔を見られてたと思うとばつが悪い。一海はつい愚痴る。しかし弥生はしれっとして答えた。
「私も少しうとうとしてたわ。目が覚めたら一海くんが気持ちよさそうに寝ていたものだから、そっとしておくのが親切かしらと思ったんだけど」
寧々はお茶を用意してから一海に問う。
「――で、今日は何の用事だったの?」
「寧々さんと月光さんに訊きたいことがあったんです。でも……」
一海は弥生と目配せをして言い淀んだ。寧々も弥生を見てうなずく。
「あぁ、そういうことかぁ。で、もう解決した、ってことかな?」
一海はため息をつき首を振った。「解決どころか、疑問が増えましたよ」
「んー? 例えば?」
寧々は首を傾げ、片眉を上げる。一海が口を開こうとするが、弥生が先に喋り出した。
「あの、ひょっとして怒っていますか? この間は言うことを聞かずにごめんなさい……私、色々驚いてしまって」
寧々は、それを聞いて困ったような表情になる。
「え、いやえっと、横峰さん? 弥生ちゃんだっけ? 怒ってるわけじゃないから気にしないで。ただ、あなたはこういうことには深入りしない方がいいんじゃないかなぁ、って思うんだ」
「そうだな。特にきみみたいな――普通の、女の子は」
カイルが横から口を挟んだ。そして書類の束を持ったまま移動して来て、一海たちの向かいのソファに腰掛ける。
「カイルさんも、何の話なのかわかるんですか?」
関係あるのは寧々と、あとは月光くらいなものなのかと一海は考えていた。カイルは一瞬、言いにくそうに口を歪める。
「うむ、まぁ、実際関わってしまってる以上、誤魔化しようがないのかも知れないが――」
「え? ちょっとカイル」
寧々が牽制するが、カイルは首をすくめて首を振った。
「よく考えろ寧々。少年はきみの血筋だし、このお嬢さんは少年の知り合いで、この件の当事者でもある」
「そうだけど、でも……」
「私情を挟むな。悪い癖だぞ」
低く、控えめなトーンで寧々をたしなめるカイル。寧々は何も言い返さなかったが、その表情はどこか悔しそうにも見えた。
「わかったよ……あたし、飲み物のお代わり、持って来るね。カイルはホットだよね」
「ああ、頼む」
一海は二人のやりとりを見守ってどきどきしていた。言葉の裏側に、大人の事情と駆け引きが見え隠れしている気がしてならない。その心情を知ってか知らずか、一海と目が合ったカイルはふっと微笑むと誰にともなく言った。
「……まぁ、気にするな」
カイルの分のホットコーヒーと、一海たちにはクッキーを持って来てから、寧々は改めて話し出した。
「あれってさぁ、いわゆる生霊ってやつなんだよね。信じられないかも知れないけど」
「いや、目の前で見たんだから信じますって」
弥生の話だけなら、いや、寧々たちが話したとしても、それだけでは信じなかっただろう。しかし弥生の話がまずあり、一海も最初は見えなかったのに途中から『見えた』のだから。百聞は一見にしかずだ。
むしろあれが大掛かりなトリックであってくれればいいのにと思いつつ、そうではないことを一海はもう理解していた。
「そうなんだー……信じてくれなくてもいいんだけど」
「寧々さん、何が言いたいんですか?」
のらりくらりと逃げ回る寧々の口調に、つい一海はイラついてしまう。すると寧々は叱られた子どものように首をすくめた。
「あーもーわかりました。ちゃんと説明しますってば……えっとね、あたしたちって普通の探偵業の他に、そっち系の仕事も請け負ってんのね」
一海も弥生も、寧々の発言に目を丸くする。
「何? それ」
「……ほんとですか?」




