Ⅶ-Ⅰ ケーキの時間と弥生の笑顔
待ち合わせ場所は、西杜駐輪場脇にある書店だった。
リア充の巣窟である西杜エリアだが、一海たちの学区からは少し遠いので電車を利用する割合が圧倒的に多い。そのため、アーケードへの経路から外れている駐輪場は、顔見知りと遭遇する率が低かった。
それでも一海は用心深く――ゴシップ好きの長浜などには特に見つからないように――知り合いがいなさそうな場所にある店を選んだ。
一海に案内されて店に入ると、弥生は店内を見回して目を輝かせた。
「こんな所に喫茶店があったなんて知らなかった。レトロな雰囲気だし小洒落てて素敵。一海くんって意外にリサーチ力あったりするの?」
――よし、掴みはOK! と、一海は心の中でガッツポーズを取る。
「――あ、ケーキが美味しそう。頼んでもいい?」
「え、俺がおごることになってる? まぁ、ケーキセットくらいならどうにか……」
「席を立つ時に男子がこう、さっとレシートを持ってねぇ」などと言いながら、弥生は窓際のテーブルに着く。
この店は例の事故現場にもほど近いので、あとから現場を確認しに行くのにも便利なのだった。場所柄、寧々と鉢合わせるかも知れないが、リサーチの件を持ち出せば寧々も大人しく引っ込んでくれるだろう、という計算も若干入っている。
「あ、ほら、日替わりケーキセットがお得だよ。飲み物プラス百五十円でいいって、随分サービスいいと思わない? ミルクレープとフルーツたっぷりレアチーズケーキねぇ……どっちがいいかなぁ?」
メニューを開いてうきうきしている様子は、学校での他人をまったく寄せ付けない刺々しさをまとった弥生とは、まるで別人に見える。
「どっちでも好きにしろよ。俺はホットな」
ふと、先日の思いつめた様子を思い出して、あれはデートの伏線、いやデートという口実でお茶をおごらせようという陰謀の伏線だったんじゃないか――と一海が考え始めた頃に、弥生は手を上げてウェイトレスを呼んだ。
「日替わりケーキセット二つ。ミルクレープとレアチーズ。飲み物は、ホットミルクティとブレンド、ホットで」
ほっそりした指を軽くVの字に広げて手早く注文する弥生。一海は焦った。
「ちょっ。俺ケーキいらねって」
「ふふふー。味見くらいはしてもいいよ?」
どうやら、迷った挙句ケーキをふたつとも食べる気らしい。その無邪気な笑顔に、思わず一海はつぶやく。
「まじかよ。ほんと別人だな」
途端に笑顔が止まり、拗ねたように口を尖らせて一海を軽く睨む。
「学校ではお高くとまってるって言いたいんでしょ。言われ慣れてるからいいけど」
「いや、お高くってか、他人を拒絶してるみたいな? 今の横峰の方が全然いいと思うんだけど。その……か、かわいくて」
褒めようと思って口にした言葉に、自分で照れる一海。しかし弥生の表情は拗ねたままだ。
「うん、拒絶してるの。拒絶するのも疲れるけど、されるよりはまだまし。でも今は一海くんと二人きりだし、そんなことする必要ないからね――あ、来た来たぁ、私のケーキ」
さらりと話題を打ち切り、弥生は運ばれて来たケーキセットに目を輝かせる。でもその受け流し方も一海には拒絶のように感じられた。
「きれーい。携帯で食べ物の写真を撮ってる人をよく見るけど、その気持ちわかるなぁ。お行儀悪いかも知れないけど、こんなにきれいで美味しそうだもの、消える前に撮っておきたいよね」
「あ、俺のでよければ撮るか? なんなら後からプリントもできるし」
「ほんと? わぁ、ありがとう。どうやって撮るの?」
一海はカメラを起動させてから携帯電話を渡す。弥生は少しの間アングルに悩み、やっとシャッターを切った。
「はい、ありがとう」と返されたものの、その手を引かず一海は確認する。
「一枚だけでいいのか? フィルムじゃないんだから、何枚撮っても構わないけど」
李湖も時々弁当を撮っているが、いつも「うーん、イマイチかなぁ」などと何度か撮り直している。その姿を見ているので、デジタルな写真の撮り方はそういうものだという思い込みが一海にはあった。
「うん、いいの。ありがと。さてと、チーズケーキからいただきまぁす」
お礼の言葉も何度か聞いたことがあるはずなのに、やはり印象が違うと一海は思う。
いつもこうならクラスメイトとも親密になれるだろうに――と言いたくなったが、弥生が他人を拒絶しなければいけない理由がわからない。
「ん? そんな顔しなくてもケーキ食べたら話するよ。そのために時間作ってもらったのだし。それともやっぱり味見したくなった?」
フォークの上にブルーベリーとチーズケーキをひとかけ載せて小首を傾げる弥生。そう言われて、ずっと弥生を見ていたことに初めて気付いた一海は、慌てて首を振る。
「いや、いらないし。ごゆっくり。女の人がケーキを楽しんでる時間は邪魔しちゃいけないって」
「ふぅん。よくわかってるね。お母さんが?」
「あれ、えっと……そうなのかな。いつ言われたんだろ?」
確かに言われたことがあるはずなのに、いつの間に李湖とそんな会話になったのか、一海は思い出せず首をひねった。その反応を見て、納得したように弥生はうなずく。
「そうか、亡くなったお母さんの方なのね」
「な、んで……?」
「あ……」
一海は弥生を凝視した。同時に弥生の手も止まった。
先ほどまで二人の間にあった和やかな空気が、一瞬で凍りつくのを一海は感じる。しかも凍りつかせているのは一海自身だ。
別に隠すことでもないが話すことでもないので、周囲に自ら説明したことはなかった。なのに何故、弥生が当然のように口にしたのか。
一海は混乱する思考を落ち着かせようとして、息をするのも忘れていた。
――いや、覚えていないだけで何かの折に話しただろうか。
平静を装いながら、一海は必死に思い出そうとした。しかしまた呼吸が早く浅くなる。頭の中がぐるぐると回り出し、こめかみの辺りが大きく脈打つ。思考がまとまらない。
しばらくの沈黙の後、それまで固まっていた弥生の視線が泳いだ。フォークでケーキを少し削り取り、また視線を合わせてゆっくりと言った。
「こないだ……言ってたよ?」
それが解呪の言葉になっていたかのように、一海は深く静かに息を吐き、脱力して肩を落とした。弥生がケーキをゆっくり咀嚼する。小さな塊が弥生の喉の奥に滑り落ちて行くのに合わせて、一海の頭に上った血もようやく落ち着いた。
「そっか……俺、忘れてて」ようやくそれだけ言うと、また息を吐く。
「ううん、私もごめん。安易に言っちゃ駄目なことだったみたいだね」
「いや……」
考えてみれば、一海が言わなければ当然知らないのに、何故慌てたのか。多分、弥生に見透かされた気がしたのだろう……と、一海は自分を納得させる。
やがてチーズケーキをすっかり食べて一杯目のミルクティを飲み干した弥生は、カップにお代わりの紅茶を注ぎながらようやく話を切りだした。
「そうそう、今日の本題だけど。あの事故の――」
「ああ、うん」
先ほどのできごとで一海も忘れていたが、今日はその話を聞きに来たのだ。
「どこまで話したっけ……管理人さんの甥が事故に遭って。管理人さん、えっと、柘榴さんって言うのだけど」
「その辺はまぁいいよ。俺が聞きたいのは、その……」
「ユーレイ」
「……うん。でもその人、助かったんだよな?」
「助かったらしい、と母が電話で話しているのが聞こえた。内心ほっとしたけど、禅さんの顔が思い浮かばない自分が薄情な気もした」
「ゼンさんっていうんだ」
「うん、禅二郎っていうのだけど、おじいちゃんがつけた時代がかった名前で恥ずかしいって。だから禅さんって呼んでた」
「なんというか、着流しで刀差して歩いてそうな名前だな」
「え、どういうイメージなのそれ」
弥生はふわりと笑う。
「それで、その現場にいた人が、横峰にはゼンさんに見えたんだ?」
「見ただけじゃなくて……あの、信じてくれるかな」
弥生が覗き込むように見つめる。一海は腕を組み、深く息をついた。
「悪いけど、話を聞く前に約束はできない」
弥生の表情が曇る。だが一海は「ただ――」と言葉を続けた。
「ただ、これから信じがたい話を聞くんだ、ってのだけは心得ておくよ。あと、にわかに信じられない内容でも、頭ごなしに否定しない」
「……なるほど。誠実な返答かも知れないね」
弥生はミルクティをスプーンでくるくるとかき回す。まだ話すことを躊躇しているように見えたが、一海は辛抱強く待つ。弥生はため息をつきながらスプーンを置き、一海をまっすぐ見つめた。
「私は彼と話もした。他人の空似でもなんでもなく、禅さん本人だったの」
「えっ……?」
その後に続くのは長い沈黙だった。
一海は弥生の表情を読み取ろうとするように、弥生は一海の様子を観察するように、お互いじっと見つめ続ける。店内のざわめきが急に耳障りに感じられ、一海は一瞬視線を泳がせた。弥生は小さく咳払いをする。
「……だから、話そうか迷った。私もこんなことは初めてで――幽霊の方がまだ現実味がある」
その声は少しかすれた。からかっているわけでもなく、本気で心細く感じている。そんな表情だった。
水のグラスの中で、氷がカランと涼しげな音を立てて揺れた。一海はテーブルに両肘をつく。顔の前で軽く手を組み、小さくうなずいた。
「俺も――そういう話を聞くのは初めてなんだ。詳しく、話してくれる?」