余聞 ライダースーツとつむじ風:後
残暑の夜だというのに、弥生は鳥肌が立って来る。
「あの、ねえ禅さん……」
両腕を抱きながら、意を決して切り出そうとした時、店の扉が突然開いた。
「あれぇ? うち、もう閉店なんですよぉ」
急に声を掛けられて、弥生は飛び上がりそうになった。
振り向くと、白いニットと脚の付け根付近でざっくり切ったようなジーンズのショートパンツが目に飛び込んで来た。
咄嗟に返事ができないまま見上げると、金髪の女性が弥生を見下ろしている。
「そろそろそのベンチもしまおうかなぁ、ってさ、出て来たんですよね。すいませんけど。そっちのおにいさんも。また明日以降ご来店いただいても?」
「あ、あのっ、ごめんなさい、私……」
弥生は謝りながら慌てて立ち上がり、禅二郎を見る。女性の声が聞こえていないように、禅二郎はまだぼんやりと肘をついたまま座っている。
――この人は、死んではいないけど生きてもいない――
弥生には、今の禅二郎がそんな風に思えてしまう。この状態で声を掛けていいのだろうか、と躊躇する。
「ねえ、おにいさん? 具合悪いんですか……っと、あれ?」
女性は目を見開く。そこでようやく弥生は、この女性にも禅二郎が見えていたことに気付いた。
だが、女性が次に発した言葉で弥生は更に鳥肌が立った。
「駄目だよぉ、こんなとこにいちゃぁさぁ。おにいさん見覚えあるよ。ゆうべの事故の人でしょ? 帰らないと帰れなくなるしさぁ、おじさんも心配してるでしょ。あと、この子も困ってる」
禅二郎がゆっくりと振り返る。その表情はぼんやりと、しかし戸惑っているようにも見える。
「事故……? そうだ……雨で」
ふらふらと立ちあがり、弥生たちを無視して歩き出そうとする禅二郎。その肩を女性が掴んで引き止めた。
「駄目だよ、帰りなさい。このままじゃ帰れなくなるよ……あなたには、まだやらなきゃいけないことがたくさんあるんでしょ? あたしが手伝ってあげるから――病院まで乗せてあげるからさ」
「びょう、いん……猫が、鳥を追い駆け……いや、あれはコウモリ? コウモリが俺に向かって」
うわごとのようにぶつぶつとつぶやきながら、まだ歩き出そうとする禅二郎。
「わかってるわかってる。コウモリが悪いんだ。あんな雨の日に仕掛けて来るから……あんたは巻き込まれただけで」
女性は禅二郎の肩をがっしりと掴んだままうなずく。
「だから帰らなきゃ駄目――って、ちょっとニコちゃん手伝って! こいつ、あたしだけじゃ力がたんな……っ」
女性の声を聞いて、店の中から若い男性が飛び出して来た。そして禅二郎を見咎めて舌打ちをする。
「ねぇさんヘンなモン捕まえんなよ……オレ、保護するのは苦手なんだからよぉ」
髪を脱色させているのか、煤けたような色合いの中に、一部だけ白髪めいたひと房があるのが見えた。色白な女性と対比して見るからか、それとも日焼けなのか、肌が浅黒く、半分闇に融けたようにも見える。
白いTシャツとカラフルな迷彩のハーフパンツという、やはりラフな服装のその男性は、文句を言いつつ禅二郎の腕を素早く掴むと女性に目配せをする。
外灯の光の加減なのか、その瞳は金色に輝いて見えた。
男性が小さく口を動かすと、口笛のような鳥の鳴き声のような『音』が流れた。
禅二郎は降り始めた夕立に当たったかのように、ビクリ、ビクリ、と反応してから動きを止める。女性も口笛を吹き始め、不思議な和音を奏でた。
その和音は静かに、弥生に聴き取れるかどうかのわずかな耳鳴りのように響く。
やがて、どこからか風が吹き始めた。
初めは蒸し暑い夜の生温かい風だと思った。だがそれは徐々に強さを増し、更にはひんやりと冷気を含む。その風が禅二郎の周りでつむじ風のようにくるくると回り出した時、弥生はようやく『何か』が起きていることに気付く。
誰かが捨てたのだろう、くしゃりと丸められたレシートが、きりもみしながら空に上がって行く。
つむじ風はどんどん大きくなり、小さな竜巻といってもいいほど激しさを増す。
このままでは禅二郎まで吹き飛ばされて舞い上がって行く気がして、弥生は手を伸ばした。
「禅さん! あぶな――」
だが弥生が伸ばした手は、男性に制される。
「駄目だお前、危ないから離れていろ。邪魔」
言葉は乱暴なのに、焦っている風でもなく妙に落ち着いた声だ、と弥生は思う。同じくらいの年齢に見えるのに、父親くらいの年齢でもおかしくないような貫禄もある。
――なんて、こんな時にそんなことをのんびり考えている私は、どこかおかしいんだろうか……
と、弥生は思う。
「大丈夫、ちゃんと送り届ける。あの人もお前も、明日になったら忘れるからさ」
男性はそよ風に吹かれているかのような表情で、弥生に微笑む。実際は、弥生のスカートがめくれ上がりそうになるくらいの暴風の中だというのに。
「あぁ、そうだ――今日はこれを枕元に置いて眠るといい。ショックを和らげる効果がある。うちの兄貴イチオシのブツだ」
彼はそう言ってポケットから何かを取り出し、弥生の手に押し付けて来た。
それは卵よりも少し大きめの半透明な石だった。ひんやりとした感触はガラスに似ているが、想像したよりも軽い。アクアマリンめいた色合いで、涙型にカットされている。一目見た途端に心奪われるような美しさだった。
――きれい。欲しい。
目にした途端、弥生は強くそう思った。だが、
「――あの、でもこれ、私、困ります」
何のつもりか知らないが、意味もなく物をもらうのは落ち着かない。後から多額の請求が来たりするのはもっと怖い。そう思って弥生が返そうと顔を上げると、目の前から禅二郎の姿が消えていた。
女性と男性の間には初めから誰もいなかったように――いや、最初から何事もなかったかのように、彼らはショップボードを畳んだりして、閉店の準備をしていた。
弥生が一人で驚いているうちに、小さな竜巻も弱くなり、やがて消えた。
「今日はもう帰りな。それはオレからのプレゼント。請求書が届いたりはしないから大丈夫だよ。かわい子ちゃんには特別サービスしとくよぉ」
色黒の男性は少しハスキーな声でそう言うと投げキッスまでして、さっさと店内に戻って行った。
「あ、ちょっ。ベンチ片付けるのあたしだけぇ? ねえ、疲れたんだけどぉ? ニコちゃんてばぁ」
男性の背中に向かって、女性が不満をぶつけた。ぶつぶつ言いながら一人でベンチを店内に立てかけ、ため息をついて弥生の方を振り返った。
「ね、あなたもさ、いつまでもここにいたって何もないしさ、用事が終わったならもう帰った方がいいよ。この辺、夜になるとちょっと治安悪いし」
「あ、はい……では」と、頭を下げる弥生。
「うん――あれ? あなたも城高の生徒さんなのかな?」
ふと、そう問い掛けられて「ええ、そうですけど」と弥生が答えると、女性はふむふむと何か納得するようにうなずいていた。
「まぁ、気をつけてお帰りなさいな」
そういい残して女性もまた店内に戻り、中から施錠する音が聞こえて来た。
確かにこのままここにいても、禅二郎はもう戻って来なさそうだった。歩き始めた弥生は、ふと手の中の物を思い出す。
プレゼントとかサービスとか言われたが、やはりいきなり何かを受け取るのは気が退ける。普通に贈られたものなら多分喜んで受け取っただろう。それくらい惹かれる石ではあったが、禅二郎の一件と関係あるなら尚更受け取れない気がした。
きょろきょろと周囲を見回すと店の横にポストがあった。弥生はそこにその大粒の涙をコトリと入れて、改めて家路についた。
鍵がついているし、明日になれば店のスタッフが気付くだろう、と考えながら。
* * *
――その夜もまた、雨になった。