Ⅰ-Ⅱ 軽い口調と重い自転車
* * *
いいタイミングで追い風が吹いた。
一海の自転車は風に押されるようにして通学路を走り通し、結局いつもより五分遅れ程度で、駐輪場に到着できたのだった。
いつもの時間ならまだ駐輪場にも人がまばらで、場所も六割方が埋まっているという程度だったが、今日はもう、ぱっと見た程度ではどこに空きスペースがあるのか、見当もつかない。
――たった数分違うだけで、こうも混雑具合が違うのか……
と、一海は妙に感心しつつ、隙間を見つけて自転車をねじ込んだ。
それでもまだ今日はましな方らしい。
すれ違った生徒が友人と「ラッキー、まだ空いてる!」と言葉を交わしているのが聞こえる。
夏休みが終わったばかりでまだ休み気分を引きずっているのだろう。この時期には遅刻ぎりぎりに登校する者も少なくない。
なので駐輪場が本格的に混む時間帯は、もう少し後になるのかも知れない。
みんな同じ紺色のブレザーに、グレーのスラックスやスカート。そこは制服だから当たり前だろう。
だが、校則で定められているわけでもないのに、みな同じような髪型で、同じようなストラップをつけた同じような携帯電話を手にしている。そしてみな、ゆうべ観ていたテレビ番組やアイドル、流行の音楽の話をしながら通り過ぎる。
実際、一海が自転車を入れるまでの間に、それぞれ違う生徒の声で、同じ話題を三回聞いていた。
その顔ぶれを漫然と眺めてみても、一海は彼らのうちの半分も名前を知らないのだ。
自分ひとりくらい、急にいなくなったとしてもきっと誰も気付かないのだろう――そう思うと、一海は心の中が空虚になる。
「おはよう木ノ下くん」
後ろから急に声を掛けられた。
「えっ? おは、よ、う。あぁなんだ。横峰、さんか」
しかもそれが女子の声だったために、一海はきょろきょろと周囲を見まわす。
が、自転車を押して歩いて来たのは、クラスメイトの横峰弥生だった。その姿を視界に確認した途端、がっくりと肩を落とした。
正直なところ、一海にとってはあまり朝っぱらから関わりたくないタイプの生徒だ。
弥生は肩に掛かる長さの黒髪を優雅に揺らしながらゆっくり進み、無表情のまま、くっきりした二重の大きな目で一海を見返す。
「おはようって言ってるのに、なんだ、とは随分なご挨拶だよね。私には役不足ってことなのかなぁ。それとも、誰か他に声を掛けてくれる予定の人でもいたの? でも明らかに浮かれて挙動不審だったのを見れば、いなさそうな気がするよね。まぁ、ちょっと面白かったからいいけど」
弥生は身長は一海より約十センチ低いはずだ。だが他人を見下ろすかのような鋭く威圧的な視線、いや単に偉そうな視線というか態度というか、とにかく普段から割と誰にでもこのような接し方なのだった。
しかしあいにく、話し掛けられているのに無視する無礼さも度胸も、一海は持ち合わせていない。
「悪いかよ。っつーか健全な青少年としては当然の心理だろうがよ? ってか、役不足って正しく使ってるならなんか腹立つし、間違って使ってんでも意味おかしいからよそれ」
一海の言葉を聞いた弥生は、無表情から一転、わざとらしいくらい意外そうな顔をしてみせる。
「うぅん? 当然正しい意味で使ってるつもりだけど? 私が挨拶しているのにその態度はどうなの? って言ってるの」
――まじかこいつ。
このままこの話を続けても、楽しいことはひとつもないだろう。一海はそう判断して早々に話を切り変えた。
「ああそうですか……まぁいいわ。ところで、チャリ通だったんだなー横峰さん。意外っつーかイメージと違うっつーか。バスとか徒歩で登校して来そうな気がしてた」
「木ノ下くんが私にどんなイメージを持っているのかわからないけど、徒歩で通学するには一時間近く掛かるのに、丁度いいバス路線もないから自転車で来るしかないの。今日は更に、ほら」
弥生は、ぐい、と自転車を突き出して一海に見せる。
前輪のタイヤチューブが、ぐにゃりだらりとだらしなくよれた状態でホイールに絡みついてた。これは空気入れで済みそうな症状には見えない。
「あーあ、パンクったのかぁ。ご愁傷さまだな。じゃ」
一海は徐々に周囲の視線が気になりだした。なので、さり気なくこの場から逃げることにする。
朝っぱらから駐輪場近くで――いや、駐輪場に限らず人目につくような場所で男女が話していれば、それだけで噂になりそうな年頃だ。余計な面倒事に巻き込まれるのだけは避けたかった。
「ちょっと、ねえ、あなた、クラスメイトが困った顔してるのだから、手伝ってくれてもいいんじゃないの? パンクした自転車って結構重たいのよ。これを女子の細腕で押したり引いたりしながら、停められそうな場所を探せっての? そこはクラスメイトとして、手助けしてくれても――」
弥生は一海の背中に、やたら『クラスメイト』を強調しつつ、大声で呼び掛けて来る。
非常に遺憾な話ではあるが、こちらがどんなに避けたくても、面倒事の方から追い駆けて来る場合もあるらしい。
「あーもうわかったからそんなに大声で訴えるなよ……まだ奥の方なら空いてるかも知れねえから、そっち持ってってやればいいんだろ?」
これ以上無視すると、余計に注目を浴びてしまいそうだ。一海は逃走を早々に諦める。
「ありがとう。これこそ持つべきものはクラスメイト、袖擦り合うも多少の縁ってやつね」
自転車を押す一海の後ろから、かなりわざとらしく喜ぶ弥生の声がついて来る。
「全然上手いこと言えてねえし、二つめにいたってはイントネーションつーか多分完全に意味違ってるから。多少じゃなくて多生だし……っと。この辺なら出す時も大変じゃなさそうだから。いいよな。ここに停めるぞ」
一海は両隣の自転車を少しずつ寄せて、一台分の空きを確保する。
「なして音だけで違うってわかるんだがや? なまっとおだけかもしらないべさ?」
「無理矢理なまるな。不自然極まりない。っつーか色々混ざってるからそれ」
一海は律儀に突っ込みを入れながら、自転車を隙間に収める。
「もう。細かいことを気にする男はモテないよ。あ、だからモテな――」
「余計なお世話だ! 親切行為を強要されたうえに、なんでこんな絡まれなきゃいけないんだよ俺! ほら鍵! 用事は済んだろ、俺はもう行くからな!」
一海は自転車のキーを弥生に放り投げると、振り返らずにそのままずんずん歩いて校舎へ向かう。
どうやら、自分でも多少なりとも気にしているようなことを他人に指摘されるのは、やはり癪に障るものらしい。
――認めたくないものだな……って、いや、そういうんじゃないけど。やっぱムカつくよなぁ。
つい大声を上げてしまったのは悪かった、と直後に少し反省した。だが、モテないのなんのと言われる筋合いは、一海にはないはずだ。
後に残された弥生はしばしの間、その後ろ姿を見送る。それから手のひらの上に乗った自転車のキーに視線を落として独りごちる。
「そっかー……モテないのが悩みだったのね。よくわからないけど、ひょっとしたら悪いことをしたのかも知れないね」
予鈴が鳴り始め、周囲の生徒たちが校舎内に吸い込まれるように消えて行く中、弥生は急ぐ風でもなくまた一海が去った方を眺める。そして何事か考えているように首を傾げた。
やがて「ふむ」とひとりで納得したようにうなずくと、ようやく校舎に向かって歩き始めた。