余聞 ライダースーツとつむじ風:前
弥生がそこへ寄ったのは偶然だった。
いつもは塾からはアーケードを通って駅へ向かい、バスに乗って自宅方面へ帰る。
だが今日に限っては、今朝パンクしたタイヤを修理するついでに、自転車でそのまま塾がある西杜方面まで来たのだ。だから駅方面ではなく市の駐輪場へと向かった。
そこでふと、ゆうべの事故現場近を見てみようと思い立ち、少しだけ寄り道をしてみたのだ。
そして、現場付近を漂うように歩いている赤と黒のライダースーツの男性を見掛けた。
禅二郎のスーツに似ている気がした。いつだったか写真で見たスーツは、特注品だと言ってなかっただろうか……だが本人は入院中のはずだった。
弥生は思わず追い駆ける。
ふらふらふわふわと、夢見るように歩いているその人物の雰囲気が、どこか他の人たちと違う感じがした。
ただの通りすがりの酔っ払いという可能性もあるが、そもそもライダースーツを着てる状態で酒を飲むだろうか? 店側だって、そういう格好の人間に酒を売ったりするだろうか。
そんなことを考えているうちに、弥生は奇妙なことに気付いた。
「――何故誰も、あの人を見ようとしないの?」
様子がおかしい人を避け、視線を合わせたがらないのはわかる。しかし誰一人として彼の方を見ていないのは、やはり不自然だ。通りすがる時に、無意識にでも相手に一瞬視線を向けることもあるだろう。
弥生と同じ年頃の男子なら、ライダースーツそのものに興味を持って顔を向けることだって、ないわけじゃないだろう。
しかし誰も、よろめいているその人物を見ていない。まるで見えていない様子だ。
それでも何故か、誰も彼にはぶつからない。
彼が千鳥足で右に寄ると、ごく自然な動きで、近くにいたカップルがその場を離れる。左に寄ると、そのまままっすぐ進んでいたら確実にぶつかるであろうサラリーマン風の中年が、ショーウィンドウに興味を惹かれたようにふいっと足の向きを変える。
その時、弥生は短く悲鳴を上げた。
周囲の通行人が弥生を振り返る。通りすがりのカップルも、ショーウィンドウを覗いていた中年サラリーマンも、ライダースーツの男性も。
弥生は決定的な場面を見てしまったのだ――いや、実際は見なかったのだ。
ショーウィンドウに映っているのは、サラリーマンが一人だけだった。
弥生がどれだけ目を見開いてみても、ライダースーツの男性の姿は、ウィンドウのこちら側にしかいない。
息が浅く、速くなる。
「……禅さん?」
恐怖を感じているにも関わらず、弥生は呼び掛けていた。
その男性の顔は、弥生が知っている禅二郎にそっくりだった。
少し年を取り、当時のお兄さんよりおじさんに近い年齢になっていたが、弥生の記憶の中の面影からはそれほど変わっていない。
――私は、また、幽霊を見ているのだろうか。
そう考えると、心の中がぎゅっと絞られたようになる。何度遭遇しても、この世ならざるモノを見ることはつらい。
だが弥生には、幽霊を見たことよりも、禅二郎がもうこの世にはいないのかも知れないということの方が受け入れがたかった。
しかし周囲の人々は、禅二郎ではなく中年のサラリーマンを見た。
サラリーマンは周りをきょろきょろ見回した後、慌てて首をぶんぶん振り、その場から逃げるように去って行った。
それで興味を失った者、弥生と遠ざかるサラリーマンをまだ交互に見て、不思議そうな顔をしている者。その後の人々の様子はばらばらだった。
だが、誰一人として禅二郎には――弥生の声を聞いてまっすぐ歩いて来るライダースーツの男性には、視線を向けなかった。
弥生はまるで金縛りに遭ったかのように、その場から動けないでいる。
しかし禅二郎は、弥生の目の前まで来ると笑顔で話し掛けて来た。
「あれ……? ひょっとして弥生ちゃん? 大きくなったなぁ」
先ほどまで弥生が感じていた違和感は、急激に薄らいで行った。
弥生はさり気なく周囲に視線を走らせる。まばらに通る人たちはやはり禅二郎を認識していないようだが、禅二郎本人の足取りはしっかりしている。『生きている』気配もある。
さっきは寝ぼけていたのか、もしくは――やはり酔っていたのではないか、と弥生は自分を無理矢理納得させた。バイクで来たが、飲酒したためバイクを置いて帰る途中……それなら、あり得ないことではない。
「禅さん――お久し振りです」
「ほんと久し振り……五、六年は会ってないよね。当時は俺もまだ大学生だったっけ。弥生ちゃん、もう高校生なんだなぁ」
弥生たちが立っている場所は薄暗い。禅二郎の顔も半分が陰になっている。
見つめているうちに優しい笑顔が得体の知れない何かに変化しそうな気がして、弥生は軽く身震いした。
「あの……あっちの、自動販売機の所にベンチがあるから、そこへ行って話ませんか? ここじゃ……」
「あ、歩道の真ん中は邪魔だよねぇ」
照れたように笑う禅二郎は、やはり幽霊とは思えない現実感を抱かせる。それは弥生の記憶の中の禅二郎と変わらない。
「……でもあっちの方には行きたくないんだ。見るだけでも何か嫌な感じがして気持ち悪くなる――少し歩こうか」
禅二郎の視線の先にはガードレールがあり、大きく歪んでいた。そこは、ゆうべバイクが激突した事故現場だった。
弥生はまた悲鳴を上げそうになるのを必死に抑え、先に歩き出した禅二郎の後を、ぎくしゃくとした足取りでついて行く。
禅二郎はぽつりぽつりと思い出話をしながら歩き、時々弥生に微笑み掛ける。
いちご狩りに行って弥生が迷子になったことや、子供会の餅つき大会を手伝ったこと――こんな状況でなければ、弥生にも懐かしく楽しいひとときであるはずだった。
その話を聞く限り、弥生の目の前にいるのは禅二郎本人以外にありえなかった。
しかし、通り過ぎるショーウィンドウには弥生一人の姿しか映っておらず、そのたびに弥生はざわざわと悪寒が走る。
「あぁ、そこの店の前にベンチがあるな。あそこがいい。一休みしようか」
ゆっくりと十分ほども歩いただろうか。禅二郎は、雑貨屋の前に据えられている木のベンチに弥生をうながした。
弥生が手を触れると、ベンチは思いの外ひんやりとしていた。蒸し暑さが残る夜には心地よい。
「座ると楽だね。疲れているのかなぁ。ここんとこ仕事詰めてたし」
禅二郎はそう言いながら深く息をつく。両膝に肘をつき、大きな手でごしごしと顔をこすってまた息を吐く。
その雑貨屋は既に閉店していたが、店の奥ではまだ人の気配が感じられ、弥生は少し安心する。
大声を出せば店の人にも聞こえるだろう――などと考えている自分に気付き、禅二郎に対してほのかな罪悪感を抱いた。
「こんな所にこんな店があるのも知らなかったなぁ……お香みたいな匂いがするね? 安らぐなぁ」
「あ、そういえばそうですね」
言われてみれば、店内からかすかに柔らかい香りが漂って来る。心が落ち着くのはこの香りの効果もあるのかも知れない、と弥生は考えながら禅二郎に話し掛けてみた。
「あの、禅さん。最近は忙しかったんですか?」
「そうだなぁ。仕事の納期がね……あ、納期ってわかる? 締め切り。それが迫ってて、結構泊まり込みが続いてさ。でもそれもようやく終わって、プロジェクトの連中と軽くご苦労様会してから十日ぶりに――あ、いや別にクサくないよ? 着替えも持ってってたし、シャワーもちゃんと――」
表情が引きつった弥生を見て、禅二郎は慌てて説明する。
「ごめんなさい。そういうつもりじゃ」
弥生が謝ると禅二郎は苦笑した。
「いやー、俺こそすまん、無神経で。そうだよなー、気にする年頃だもんなー」
本当に違うんだけど、と言い掛けた弥生は言葉を飲み込み曖昧に微笑む。こういう時に余計に否定すると、更に気まずくなるものだ。
「そうだ、着替えが半分残ってたんだ。忘れてたよ。洗濯した分だけ持って来たんだっけ。次行くのは検収終わってからだけど、どうしようかな――荷物引き払う時じゃぁ遅いかなぁ。そういや、慰労会の後片付けも適当なまま切り上げちゃったっけなぁ」
禅二郎は独りごちる。弥生はそれを聞きながら胸騒ぎがして来た。
「帰り際に雨が降り出して……強くなりそうだからって、バイクだった俺だけ少し先に上がらせてもらって――あれ?」
禅二郎の表情がぼんやりと曖昧になった。
「――雨は……いつの間にあがったんだろう?」