Ⅴ-Ⅳ 寧々の本気と貞操の危機
「ね、寧々さん? あの、今俺、なんか? 聞き間違い、しちゃったみたい――」
一海はしどろもどろでようやく返したが、声は裏返っていた。
「えぇぇ? やだなぁ、もう一度聞きたいならそう言っていいんだよぅ? あのねぇ、一海くんの赤ちゃ――」
「ぃ、いやいやいや! それ、普通にまずいでしょ!」
たまらず、一海は跳びはねるようにソファから立ち上がる。
ほとんど一海に寄り掛かるようにしていた寧々が、そのまま前のめりに倒れて「うひゃんっ!」と変な悲鳴をあげた。
「あ、ご、ごめんなさい……」
つい気弱に謝る一海。
しかし寧々のことだから、助け起こそうとした時に反撃とばかりに組み伏せられたりては元も子もない。手を差し伸べるかどうか迷ったまま、一海は動けないでいた。
「やだぁ、酷いなぁ一海くん。鼻打っちゃったよぅ」
そのまま顔を上げてふくれる寧々に、一海はぶんぶんと首を振る。
「だ、だって寧々さんが変なこと言うからじゃないですか! 冗談キツいですよ。万が一俺が本気にしたらどーすんですかっ」
「え? あたし本気だけど?」
きょとんとして寧々は言う。四つん這いのまま顔を上げ、首を傾げるその様子はまるで猫のようだ。
「本気だったらもっとまずいってば。俺、まだ十七歳ですよ? 結婚できる年齢じゃないし……ってか、甥と叔母じゃないですか」
「別にあたし結婚したいって言ってないよ。子どもを作りたいだけなんだけど。何が問題? 一海くんには迷惑掛けないようにするからさぁ……」
そう言いながら、寧々は一海のズボンをぐいと引っ張る。ふいを衝かれて、一海はまたソファに腰を落としてしまう。
「や、ちょ、寧々さんくらい美人だったら、俺じゃなくても彼氏とかなんかいるでしょ? からかうのもいい加減にしてくださいよ!」
「そんな風に思ってたの? からかってるとかさぁ……さすがにちょっと」
ずいと顔を近づけて来る寧々。
その表情には少し翳りが表れる。どうやら一海の言葉に傷ついたという様子らしい。
一方の一海は、何故自分が拒否することで寧々がショックを受けるのかが理解できない。
「え、いや、だって俺、寧々さんの甥だし。少なくとも日本では、甥と叔母は婚姻関係を結べないはずなんだけど……?」
寧々はなおもにじり寄り、一海の襟元に手を伸ばす。
「甥と叔母だから、丁度いいんじゃない。さすがに姉弟とかだと血の濃さよりまっとうに育つかどうかの方が心配になるけど、甥と叔母ならそれよりは離れてるし、従姉弟よりは濃い血が期待できるし――」
言いながら、寧々はソファの端まで一海を追い詰めた。
一海は寧々の手を邪険にならないように払ったり避けたりしていたが、耳慣れない表現を聞いてつい手が止まる。
「へ? 血の濃さ? なんの話です?」
「血の濃さって、そのままよ。一族の……やっぱり、ある程度一族の血筋は守り続けなきゃいけないし、あたしには姉さんしかいなかったから、女同士じゃ子ども作れなかったし」
説明しながらも、寧々は片手で器用にワイシャツのボタンをはずし始めた。
「いや――いや、いや、ちょっと待って。だから一族とかそれ、俺知らない話だし。だからいきなり子作りってのも理解できないし!」
「あれ? そうだったっけ……」
必死の訴えに、ようやく寧々が止まった。
ほとんど一海の上にのしかかるような体勢だった身を起こす。
「じゃあ、まずそこから説明しなきゃ駄目か……」
ちょこんと正座して少し考える素振りを見せる寧々に、一海は必死の形相でうなずいた。
「んで、一海くんがそれ理解できたら赤ちゃん作ってもいい?」
「う……それとこれとはまた別の話です!」
「えぇ~? 一海くんのいけずぅ。ちょお~っとソレを貸してくれれば――」
「そーゆー言い方とかほんとやめてください。ってか指差すな!」
一海は顔を真っ赤にして抗議する――勝手に借りられないよう、両手でソレをしっかり蔽いながらだったが。
寧々はその様子を見てぷっと吹き出した。
「んもう、ウブなんだからぁ。違う意味で襲いたくなるわぁ……っていうか、彼女できたっていうから、てっきりさぁ……」
「彼女のことなんて俺何も言ってないし、まだ手も握ってないですからぁっ!」
「――え?」
「あ……」
再び、一海の頭の中は真っ白になった――血の気が引くという意味で、である。
* * *
「――ほんとに彼女ができただなんて……」
何故か寧々がずっと拗ねている。
三人掛けのソファの端で体育座りに膝を抱えて、頬を膨らませ、口を尖らせて、せわしく前後に揺れている。
この状態で、もう五分以上経っており、一海はなんと説明したらいいのかわからず――ってかそもそも説明の義務なんてねえじゃん、と、頭の片隅ではツッコミしながら――反対端に腰掛け、うつむいたまま沈黙を守っていた。
「なんていうか……彼女っていうのもなりゆきで」
一海がどう説明するか迷った挙句にそう言うと、寧々はキッと一海を睨みつけた。
「なりゆきで彼女ができるっておかしくない? なんなの? 一海くんはラノベかギャルゲーの主人公なの? ハーレム作っちゃうの?」
「いや、何言ってるかわかんないですよ寧々さん……なりゆきっちゃなりゆきだけど、ほんと、付き合ってるのかどうか、俺もよくわかんなくて」
一海がことの顛末を説明しようとすると、寧々は大声をあげながら両耳を塞いだ。
「あーあーあー聞きたくなーい。いーよねえ高校生カップルはぁ。いちゃいちゃしたうえに、独り者のあたしに向かってのろけるとかいい度胸だよねぇぇ」
「惚気てませんし、いい加減機嫌直してくださいよ」
ここまで寧々が駄々をこねるのは、本当はもっと重大な理由があるのではないか……と一海は不安になる。
「っていうか、俺、ひょっとして彼女作っちゃ駄目だったんですか? その、血筋とかの関係で……?」
だが、一海のその様子を見た寧々は、直前までの幼児並みのイヤイヤアピールをピタリと止めた。
「あー……いや、そんなことはないよ。ごめんごめん。なんていうか、姉さんの血を分けた甥っ子だーっていうのが嬉し過ぎて、なのに、すぐ取り上げられたみたいな?」
恥じ入るようにそう言い訳すると、また小さく「ごめん」と寧々はつぶやく。
「なんだ……そんなの、俺だって寧々さんが特別な人だと思ってますよ。彼女がいてもいなくても、俺は寧々さんの甥だし」
一海にもその気持ちは理解できる。
今まで従兄弟やおじ、おばなどの親戚付き合いがなかったからだ。唯一の親戚が西川のじいちゃんだと思っていたので、一海にとっても寧々の存在は特別だった。
自分のことを特別と思ってくれたのが嬉しくて素直な感想を述べたが、段々と気恥ずかしくなってきた。
「寧々さんは……その、美人な叔母、で……えっと」
残念なことに、一海は女性をスマートに讃美するような語彙力は持ち合わせていない。
「え~? なにそれ。そんなんであたしのこと口説いてるつもりぃ?」
「や、違いますしっ。な、なぐさめようとして」
「ふぅん、優しいんだぁ一海くん。でもさぁ、そんな風に誰にでも優しかったらさぁ――」
寧々がにやりとして立ち上がったので、とりあえず機嫌を直してもらえたのかと一海はホッとする――が、それも束の間だった。
「勘違いされちゃうよ――ね?」
言うが早いか、寧々は鼻先同士がぶつかるほどの至近距離に急接近した。
「――隙だらけ。世の中にはこわいおねーさんもいるんだから、頭からばっくり食べられないように注意しなさいね、一海くん」
ほとんど囁くようにつぶやいた寧々は、ゆったりとした笑みを浮かべていた。
だが何故か一海の全身には一気に鳥肌が立った。さきほど迫られた時とは違い、寧々に対して本能的な恐怖のようなものを感じて凍りつく。
「――なぁんてねっ」
数瞬ののち、寧々は打って変わって明るい笑顔になり、一海の額をデコピンする。
「生意気なんだよぅ。もっと上手にエスコートできるようになったら、もう一度口説いてねぇ」
ケラケラと、いつもの笑い方でからかうようにそう言うと、「ちょっと冷えて来たし、今度はホットの飲み物用意しようかぁ?」などと言いながらキッチンに消える。
「一海くん、そのテーブルの上、とりあえず片してくれる? すぐ飲み物用意するからさ」
「あ、あの、寧々さん」
「ってかさぁ、どんな子なのよ彼女って。教えてよぅ。ほら、おばちゃんとしては、悪い女と付き合うようなことがあると――あ、中華まん発見。食べるぅ? 食べるよね、ピザまんと肉まんならどっちがいい? あたし肉まんにしよーっと」
口を挟む暇を与えず、寧々は喋りながら軽食の用意を始めた。
――今は余計なことを言うな、ってことかな。
変な雰囲気になってしまったのを、彼女なりに気にしたのだろうと考える。
「あ、俺も肉まんでお願いします」
そう答えながら、とりあえず一海は寧々の指示に従い、テーブルのグラスなどを片付け始めた。




