Ⅰ-Ⅰ 明るいキッチンと暗い夢
清潔な白いタイルの列に、淡い緑のタイルが飛び石のように並ぶ。
それらは射し込む朝日を受けてつやつやと輝いている。
窓際の小さなガラス瓶に差してある、小さなピンク色の花。コンロに乗っている、まだ湯気の立つヤカン。白い皿に乗せられた、半熟のベーコンエッグ。
すべてが朝日の中で健康的な風景を演出するための小道具にも見える。
キッチンは東側にあるのがいいという。
風水やら運勢やらよりも、朝日が差し込む中で食べる朝食の方が、そうでないものよりも美味しく感じるからではないだろうか。
一海は焼きたてのトーストに齧りつきながら、そんなことを考えていた。
そして、自分はこの風景の中に上手く溶け込んでいるだろうか。完璧な絵を壊してしまう異分子にはなっていないだろうか――と。
「一海は物事をいちいち小難しく考え過ぎんだってばよ」と、友人に言われたのは、先週の話だった。
きっかけは多分、一海が小学校五年生の時に引き受けた、『かべ新聞係』だった。
記事をそれっぽい文章で書くと「かっこいい」とか「本物の新聞みたい」などとおだてられた。
それ以来、何か考える時も話をする時も、つい文章や表現にそれっぽい言葉を探してしまう癖がついた。
しかし実際、この癖がそう役に立ったことはない。新聞記者になりたいわけでも、小説を書こうというわけでもないからだ。
せいぜい「木ノ下くんって、喋り方がちょっと面白いよね」と、褒められているのか莫迦にされているのかよくわからない評価を時々もらう程度だ。
一海の物思いを中断させるように、李湖が軽いドアの音を立てて戻って来た。ゴミを出しに、自宅の目の前にあるゴミステーションまで行って来たのだ。
ゆるくカールしている栗色の髪の一房がほつれて陽に透け、きらきらと輝いた。彼女もまた、朝日のあたる風景の住人らしい。
李湖は対面キッチンの蛇口をひねりながらため息をつく。
「あの二匹がまたうろうろしてるわぁ。お母さん、猫は好きだけど、あの二匹だけはなぁんか気味悪いと思っちゃうのよね」
弱音を吐く李湖に、一海は咀嚼しながら視線で同意する。
近所にいる三毛猫と赤毛の猫のコンビは、ちょっと変わった雰囲気の――いってみれば猫らしくない猫たちだった。
いつもその辺でうろうろしているのだが、やたらと人間くさい意志を感じさせる視線なのだ。
もっとも、『そのように見える』というだけなので、猫たちの飼い主である老婆は少しも気にしていないらしい。
「でもリコさん、猫好きでしたっけ。俺、リコさんは犬の方が好きだと思ってましたよ」
李湖の財布やバッグには、少し前に流行った鼻がでかい子犬のチャームが、今も揺れているはずだった。
「犬も好きよぉ。でも、大型犬は苦手だけど小型犬は好きとか、ナントカ種が好きだけどって場合が多いじゃない? その点、猫は猫であるだけでもう存在自体が好き、みたいな」
手を洗い、自分用のトーストにマーガリンを塗りながら李湖は答える。
実のところ一海は犬には興味がないので犬好きの傾向は理解できない。だが、『猫は存在自体で好きか嫌いか』という言い分はわかる気がする。
「あの、ひょっとして、何か飼いたいって思ってたりしますか? 俺はその、ニワトリとかヘビとかでなければ別に構わないから、親父に言っても……」
「なぁに? 急に。いやぁねぇ、そういうつもりで言ったんじゃないわよ。そうねぇ……一海くんが大人になって独立しちゃったら寂しくなるかなぁ。そしたら猫でも飼おうかしら」
「いや、そういうことじゃなくて今」
李湖はマグカップにお湯を注ぎながら快活に笑う。
「ないない。別に遠慮もしてないし。あ、逆に、一海くんが何か飼いたいっていうんなら話を聞くけど?」
「いや、そういう話でもなくて……ほら、親父は最近、短期とはいえ単身赴任が増えたし」
「んー、寂しいかと思って気遣ってくれたのね。ふふ、お母さん嬉しいわぁ。でも一海くんがいるから寂しくないし、圭槙さんとも一日一回はお話しているし大丈夫よ。ありがと」
李湖の笑顔は、年齢の割に若々しくかわいらしい。
そのためなのか思春期というやつのせいなのか、一海は李湖に笑顔を向けられるとどうにも照れてしまい、気分が落ち着かなくなる。
これだけはどうしても慣れることがない。
「いや、別に……」と言いながら、目玉焼きの黄身だけくり抜こうとする。箸先にベーコンが引っ掛かり、危うく皿から飛ばしそうになった。
一海は照れ隠し半分でテレビのリモコンを手に取る。いつも朝につけている番組に合わせると、アナウンサーが深刻そうな顔で原稿を読み上げているところだった。
どうやら、市の郊外で交通事故があったらしい。
ダンプカー、オフロード車、バイクの三台が絡んだもので、それを避けるために周囲にも小さな事故がいくつか起きた――という説明とともに、サーチライトで照らされた現場の様子が流れる。
「うわぁ……市内みたいですよ、この事故。ゆうべ?」
「酷い事故だったのねぇ。もしもダンプカーとバイクがぶつかってたら、バイクなんてひとたまりもないじゃない。あ、こっちの車はがっしりしてるからほら、大したことなさそうだけど」
何しろ真夜中の事故なので目撃証言も少なく、事故の音を聞いて何事かと出て来た近所の住人たちがほとんどらしい。まだ事故の原因もはっきりしない。
「ゆうべの雨で運転を誤ったバイクの運転手が事故を起こしたのではないでしょうか」とリポーターは締めくくった。
「おっかねえなぁバイクって。雨だと視界も悪いし、寒いし……」
「あら? 一海くんバイクに乗ったことあるの?」
李湖が首を傾げる。一海はその言葉にはっとする。
「そういや、俺バイクに乗ったことないや。なんとなく……想像? っつか、夢では乗ったことあるような?」
「そう、夢ねぇ。それならお母さんも夢で船の運転したことあるわ」
「船って、運転じゃなくて操縦とか言いません?」
一海が笑い、李湖もつられてころころと笑った。
「そういや、バイクの夢……俺、ゆうべ見てたかも知んない。しかも最後、事故ってたような……」
「ん? 事故が何?」
李湖は一海がニュースのことを言っていると思ったのか、テレビの画面に視線を向けた。
「あら? ねえ、一海くん、時間はまだいいの?」
一海がはっとしてテレビを見ると、たどたどしい口調で天気予報を読みあげる若いお天気キャスターの頭上の数字は、とっくに家を出ている時間だと告げている。
一瞬、トーストの最後のひと欠けを喉に詰まらせそうになる。
「やっばっ。すいません、食器下げないけどごちそうさまっ!」
弁当を掴み、転げそうな勢いでダイニングから玄関へダッシュする一海。李湖の声が追い駆けて来た。
「ごめん、もっと早く気付けばよかったんだけど、お母さんもついうっかりしてて」
「いや平気。だと思う。ちょっと飛ばせば全然余裕で――」
そこまで言って、一海は後ろ手で玄関のドアを閉めた。