Ⅲ-Ⅳ 彼の困惑と彼女の告白
「あの、今、なんて……?」
一海はおそるおそる問い掛ける。
「私はここで、ある人が舞い降りて来るのを待っている、と言ったのよ」
「はぁ? 横峰って見掛けによらず、あっちの世界の住人だったんだ?」
予想外過ぎる話にうっかり本音が駄々漏れた。聞き咎めた弥生の眉間にキツいしわが寄り、無言の圧力を掛けて来る。
「いや、あの……」
一海は慌てて取り繕おうとするが、こういう場合どういうフォローをするのが正しいかわからない。
だが、弥生は軽く片頬を引きつらせただけだった。
「まあ、お前のような者にはわからないのだろうがな――恥じることはない。自分の常識外の事象など、自分の目で見るまで、自分が体験するまで信じられないのは当たり前の話だ。きっと他の奴らにも理解できないだろう。この私でさえ、あの時まではそんなことがあり得るなど夢にも思わなかった」
弥生の大仰な前振りに、一海は文字通り開いた口が塞がらなかった。
「そう、二年前の冬、私はここで運命の出会いをしたのだよ明智くん。それはまるで目の前に神が降臨したかのような――」
フェンスにもたれかかり、うっとりとした表情で空を見上げ、更にはうっすら頬まで染めて弥生はつぶやいた。
――っつーか、明智くんって探偵小説じゃん? ここで必要なのはSFの方なんじゃ……いや、じゃあ誰が適任なのかちょっと思いつかないけど、誰かを連れて来たとしても「あなた疲れているのよ」と慰めの言葉を掛けられる可能性が非常に高いぞ?
一海は色々突っ込みたくなったが、すべての言葉を一度飲み込んでから、一応義理で質問してみる。
「で、それ、誰?」
しかし弥生は聞こえていないようで、遠くの景色を見つめてまだぼうっとしている。
律儀に義理を果たす必要もなかったらしい。
「でさぁ、横峰さん。そろそろ――」戻ろう、と一海が言う前に、弥生は急に思い出したように話し出した。
「そういえば誰かがキノシタくんって呼んでたね。ひょっとして下の名前はトウキチロウとか?」
「は? 誰かってか、横峰も呼んでんじゃねえか。っつか、なんでそんな歴史的な名前をわざわざ付けられなきゃいけないんだよ。草履とか温めねえよ」
咄嗟に切り返す一海の脳裏に、笑いながら怒っている中年男性の顔が浮かんで消えた。
「そうなの? よくあるじゃない。偉人に憧れて時代錯誤な名前をつけちゃう親とか。酷い当て字でどうやっても読めないうえに、いいトシになった時に名乗るのが超羞恥プレイな名前をつけちゃう親とか。インターナショナルに通じる響きにしたいとか、三日だけでも天下を取って欲しいとか、自分ができなかったことを子どもに託す親の欲望は尽きないものよね」
「それらを同列に扱うのはちょっと危険な気がするが、うちの両親は歴史オタクじゃないし、欲望を託されてもいねえし、普通に一海って名前だよ。あと三日天下は別人の話だ」
一海は律儀に突っ込みを入れる。
「なぁんだ、じゃあ私があなたをトウキチロウくんって呼ぶ夢は叶わなかったのね」
「どんな夢だよそれ。初耳だよ」
「でもトウキチロウじゃさすがに長いわよね。ちょっと端折ってトウキチくんとか、美味しそうな響きになっていいかも」
「いや、そもそも俺の名前はトウキチロウじゃねーし」
――折角早めに教室に戻れそうな雰囲気だったのに、こいつひょっとしてわざと時間いっぱいまで引き伸ばしてるんじゃないだろうな?
一海の頭の片隅に、そんな疑問が湧いて来た。
――普段のこいつは無表情無感動無口という、ゲームに登場してたら、どうやっても攻略できなさそうなキャラだったはずで。誰かに言い返す場合ならまだしも、自分から表情豊かに話題を振って来るような奴ではないはずだよな。
「でもうっかり通りすがりの道産子に齧られでもしたら私の責任になっちゃうわね。じゃあもうちょっと短くしてトウくん――いっそのことトウさんとかトウちゃんの方が後々まで使えて便利かな? ね?」
「ね? じゃねえっ!」
「もう、そんなに大声で叫ばなくたって聞こえてるわよ。トウちゃんったらまったくぅ」
「だからトウちゃんとか言うなっ」
弥生はマシンガンのように、一海に向かって言葉を放ち続けている。時々何故かくるくると楽しそうに回りながら。対して、一海は突っ込むだけで精一杯だった。
「あら、ひょっとして通りすがりの井戸端会議好きな専業主婦が私たちを夫婦と勘違いして『高校生夫婦って漫画やドラマの設定だけじゃなかったんだわ!』なんて噂を広めちゃったりしたら、逆に私に迷惑が掛かるじゃない。人畜無害な顔で油断させて、小利大害な罠を仕掛けるのね一海くんは」
――おかしい。今日のこいつはおかしい。上条に絡んだ時からなんかテンションが変な気がしてたけど、ひょっとして熱でもあるんじゃないのか? 気のせいか、俺まで動悸がするような……
一海は呆れを通り越して段々不安になって来た。
「どう逆なのかわかんねーけど、それどっちにしろ俺が損しそうじゃね?」
「当然でしょ、私を罠に掛けようとするからよ」
「掛けてねえし、っつかさっき普通に一海くんって呼んでたじゃねえか」
「あらやだ。私たちったらいつの間に下の名前で呼び合うような間柄になったの? まだちょっと早いんじゃない?」
「ちょっとも何も、俺らはまだ全然そういう関係じゃねーし!」
「じゃあそういう関係になっちゃう?」
「――はい?」
一海はぽかんと口を開けたまま弥生を見つめる。
超展開過ぎて、弥生の言葉の意味が理解できない。
弥生は反応を楽しんでいるように、わざとらしいくらいの笑顔を作ってもう一度繰り返した。
「まだそういう関係じゃないなら、これからそういう関係になればいいんじゃない? というわけで、今から一海くんと私は付き合ってみましょう、って言ってるの。だって彼女いないんだよね? モテないんでしょ?」
その途端、駐輪場でのやりとりを思い出し、一海は一気に赤面した。
「ばっ、莫迦にするなっ」と、思わず吐き捨てる。
だがその反応が意外だったのか、きょとんとした顔で弥生は問う。
「莫迦にしてないよ? 私じゃ、いや?」
大きな目で心持ち見上げながら「いや?」なんて言われて、本気で嫌がる男子高校生がいたら、そいつはきっと筋金入りの女嫌いかガチホモに違いない。通りすがりの男子高校生がうっかり恋に落ちても、誰も責められはしないだろう。
ただし、弥生の性格を知らなければ。
――いや、でもこれは演技かも知れないし。こいつの性格ならば、昨日の飛び降りみたいなどっきりをまた仕掛けようとしているのかも……いやいや、でも本気で付き合おうとか言ってるのか、まさか。っつーかこいつ、付き合うってどういうことかちゃんとわかってねえんじゃねーの? って、それは俺も一緒か。
一海は混乱して固まったまま、何か言わなければと焦る。だがやはり口をぱくぱくさせるだけで声にならない。
いつまでも一海が答えないからか、弥生は段々不機嫌そうな表情になって来た。
「何故返事しないのかなぁ。想定外だった? それともそんなに私と付き合うのが嫌なの? じゃあいいよ。一海くんが付き合ってくれないなら、私ここからほんとに飛び降りるし」
そう言ったが早いか、弥生は踵を返して手近なフェンスへ向かって駆け出した。
「わああっ、わ、わかったから! 付き合う! 付き合います。ってかお付き合いさせてください。だから飛び降りるなぁぁ!」
金縛りが一気に解けたように、一海は弥生を追い駆けながら叫んだ。
その言葉を聞いて振り返り、弥生はにっこりと微笑む。
「うん、じゃぁよろしくお願いします。一海くん。私のことは遠慮なく弥生、って呼んでね」
――これはひょっとしたらどっきりじゃなく、新手の嫌がらせかも知れない……
弥生の笑顔を見ながら一海は思い直したが、時既に遅しだった。