Ⅲ-Ⅱ 弱気な教師と強気な生徒
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授業を潰してまでのホームルームでは、担任から事故の説明があり、なんの関係があるのかはわからないが当面バイク通学は禁止というお達しが出た。
「えー、後で保護者用のプリントも配るけどな。とりあえず今後の通学について、生徒用のプリントを急遽作ることになってな。あぁ、プリント足りない列はないか? で、もわかってると思うが、くれぐれも帰りなどに現場を見に行ったりしないように――ほらそこお喋りしない!」
担任の矢坂陽助はまだ若いため、教師としての威厳に乏しい。
彼が多少注意したところで、お喋り好きな女子生徒はすぐには大人しくならない。名指しで注意されて、ようやく一瞬だけ口を閉ざして前を向いてみるが、一分と経たずにまたこそこそ話を始めている。
普段は「早く終われよ」とばかり話を聞かず、だらだらと時間潰しに精を出す男子生徒も、今日ばかりはざわついていた。
みんな朝のニュースで事故の概要は知っていたものの、何か重大な情報が担任の口から聞けるかも知れない、という期待があるのだ。
「せんせぇ、なんでバイク禁止になったんですかぁ?」
学校から自宅まで徒歩十分の久保が手を挙げる。
「ん? 久保には関係ないだろう? まぁあれだ。PTAの方で決まったことでだな……」
咳払いをしつつ曖昧に言いよどむ様子から察すると、朝っぱらから電話攻撃を仕掛けて来た保護者が多数いたのだろう。
久保の方も、単に気になったから訊いてみたというだけだったらしく、「関係ないとかひでぇ。その通りだけど」と言いながら、隣の男子と笑っている。
「うっそー。昨日すぐ目の前のゲーセンでプリクラ撮ったじゃぁん。あそこなわけぇ? まじウザいんだけどぉ」
前から二番目の席にいる本間の声が、一番後ろの席の一海にも聞こえる。
何がうざいのかわからないが、鳶田からの情報では、とりあえずあの辺りに行ったことがあるとリア充、という認定になるらしいので、自慢したいのだろう。
名指しで叱られると、本間は「はぁぁぁいぃ」と間延びした返事の後、肩をすくめて隣の女子と顔を見合わせている。
――どいつもこいつも緊張感がないなぁ。まぁ、市内の事故っつーても遠いし、所詮は他人事だしな。学校の近所で起きたらもう少し騒然とするんだろうけど。
一海は自分の緊張感のなさは棚に上げて、クラスメイトたちの浮足立った様子を眺めていた。
「ウゼぇ……」
今度は一海の右側から低い声で文句が聞こえて来た。
またか、という気分で視線を向けると、斜に構えて座り、頬杖をついた状態で上条が貧乏ゆすりをしている。身長百八十センチ以上あるという上条が背中を丸めて座っている様子は、かなり無理な姿勢で窮屈そうだ。
上条はバイク通学だった。
もっとも上条やその仲間の場合、通学のためというよりは、他の生徒を威嚇するためだったり、放課後仲間たちと集まるためにバイクに乗っている、と言った方が正しいのかも知れない。
クラスメイトの視線が集まったのを確認してなのか、上条はもう一度、今度はもっとはっきりとした声で文句を言い出す。
「ウゼぇし。マジ俺ら事故と関係なくね? なんでバイク禁止なのか全然わかんねえつーか、ねーわ」
矢坂が苦笑とも困惑ともつかないアルカイックスマイルで、上条をなだめ始める。
「上条……気持ちはわかるような気がしなくもないが、これは学校側で決まったことなんだ。PTAからも要請があったし。何も今後ずっと禁止ってわけじゃなく、ほんのしばらくの間なんだから我慢してくれないかな」
しかし上条は、どうしても誰かに八つ当たりをしたかったらしい。貧乏ゆすりを更に激しくさせながらふて腐れた様子で反論した。
「そりゃねーわ、ようちゃんよう。俺にどうやってガッコまで来いっつんだよ? ようちゃんの車に乗せてくれんの?」
上条の尻馬に乗って「そうそう、困るんすよねー」「ようちゃんの車何人乗りー?」などと囃しているのは、普段から上条とつるんで、他の生徒たちを威嚇して面白がっている奴らだ。当然みんなバイクやスクーターで通学している。
こういうのに関わると、弥生以上に面倒なことになるのは目に見えている。
一海はなるべく無関心を装い、しかし完全に無視はしていないという微妙なスタイルでさり気なくやり過ごす。他のクラスメイトたちも不安げな表情で黙り込んでいる。
本間でさえお喋りをやめた。
矢坂が落としどころを見つけてくれるか、上条が八つ当たりに満足するか――どっちでもいいからとにかく早く終わってくれ、という空気が教室内に広がっていた。
そんな矢坂の気弱なたしなめと、上条たちの煽りの応酬の最中に、突然ありえないくらいはっきりと割り込む声が響いた。
「徒歩だろうがバスだろうが自転車だろうが、登校手段は他にも色々あるでしょう?」
一海は耳を疑う。いや多分クラス中が耳を疑っただろう。
「一生バイクに乗るなって話じゃないんだし、ちょっとの間くらい我慢できないもんなのかしら? そもそも、通学のためだけにあんな騒音を撒き散らさなくてもいいと思うけど。まぁ、持ち主じゃなく、バイクが授業受けてるのなら話は別だけどね?」
いつも通り澄ました顔で、教卓の方を向いたまま弥生がそう言い終わると、教室内がしんと静まり返った。
――何やってんだよ……何やっちゃってくれてんだよこの人はぁぁ?
一海は血の気が引いていく。自分が失態を起こしたわけでもないのに。いや、自分の失態以上に、まずい状況だと感じた。
上条はというと、誰が何を言ったのか始めは理解できなかったらしい。周囲の視線が弥生と上条に集中しているのに気付き、ようやく気を取り直して矛先を変える。
「なんだてめえ! 喧嘩売ってんのかこら! ああっ? 女のくせに生意気こいてんじゃねーぞ?」
「生意気? 女だから男だからとか、その程度で脅しになってると思うのが情けないよね。それに私、至極まっとうなことを言っているだけだけど? それとも実は、『バイクには乗れるけど自転車には乗れませんでした』なんてオチかしら」
ゆっくりと振り返り、弥生は続ける。顔にも声にも臆するところは見当たらない。
一海は、昨日屋上から飛び降りた時の弥生の表情を思い出し、無意識のうちに両手を強く握り締めた。
「んだこらぁ! 上等だ! やんのかこら! おおぅっ?」
「こんなことでそんなに頭に来るなんて、まさか本当に自転車に乗れないの?」
「んな話してねーだろこら! てめマジ喧嘩売ってんのかこら!」
片や、上条は顔を真っ赤にさせて立ち上がり、今にも殴り掛かりそうな勢いだ。かろうじてそれを押し留めているのは、相手が女子だからなのか、仲間の視線が気になるからか。
「こら、って言えば強そうに聞こえると思ってるなら、愚かしいことこの上なしね。威圧するにしても語彙が少な過ぎ。そもそもバイクは授業に関係ないでしょって話をしてるのに、それについては一言も弁明なしだよね? どうなの?」
「はぁ? ふざけてんのかてめえ!」
「か、上条いい加減にしろ! お前がそんな態度取っていると、そのうち本当にバイクが禁止になるぞ!」
やっと矢坂が割って入ったが、声が少し、いやかなりうわずっていた。
しかし上条も引っ込みがつかなくなっていたのかも知れない。
矢坂と弥生を睨みつけ、その後自分の仲間へ視線を移すその瞬間、むっとしながらも曖昧な笑みを一瞬もらしたのを、一海は見てしまった。
「っせえんだよ。お前らはぁ。あーあ、付き合ってらんねえわ」
捨て台詞を残して上条が教室を出て行く。
示し合わせていたように続けて数人がぞろぞろと教室を出て行った。階段の方から、まだ文句を言っている声が聞こえていたが、その頃には教室内の緊張が解けていた。
ざわざわと落ち着かない生徒たちを呆れたように見渡した担任の視線は、やがて弥生で止まる。
一海の位置からは弥生の表情は見えない。
弥生の隣の席にいる小心者のカズオが、おどおどとプレーリードッグのように首を動かして様子を窺っている。
「横峰あのな――」
「多少出過ぎた真似かとは思いましたが、他の人も似たり寄ったりな感想を持ってたと思います。先生、何か問題がありましたか?」
あらかじめ準備していたかのように淀みなく弥生は答える。逆に矢坂は、まるで自分が責められているような気弱な表情だ。
「いや……その、同じクラスのな、一員なわけだし」
「同じクラスの一員だからこそ、たかがバイク通学程度で、あんなに駄々をこねられたくなかったんです。上条くん、あのままだと少なくとも今日一日中は、バイクがバイクがってうるさかったと思うし」
弥生の言葉に女子がくすくすと反応した。男子生徒も数人が小さくうなずいている。
「あるよねぇ」という声が聞こえて、矢坂が咎めるように咳払いをした。
「まぁその、とにかくだ。上条が機嫌を損ねるだろうとは先生も予想はしてたが、指導するのは担任の役目なんでな。横峰の勇気には感服するが、上条もああいった性格なんだから挑発になりそうな発言はなるべく控え――」
歯切れ悪いまま続ける矢坂の言葉が一瞬止まり、同時にひきつった表情になった。
「――いや、よこ、横峰の安全ってのも、あるから、な?」
矢坂は無理に笑顔を作ろうとしたらしく、頬が痙攣していた。カズオの横顔からも血の気が引いている。周囲の空気が凍りついているのを感じたのは、一海だけではないだろう。
ひっそりと、一海はため息をついた。