Ⅲ-Ⅰ 白い猫とピンクのハート
翌朝、盛大に寝癖をつけた一海がダイニングキッチンのドアを開けると、李湖はベランダの掃き出し窓を開けてしゃがみこんでいた。
そのかたわらには雑巾を掛けたバケツが置いてある。
ゆうべの雨が隙間から吹き込んだのかな、と考えながら一海は声を掛ける。
「おはようリコさん。ゆうべの雨、結構降った感じですか?」
振り向いた李湖は、もう一枚白い雑巾を手にしているように見えた。
と、突然その雑巾がもそもそと動きだし、一海はぎょっとする。
李湖は手にした白い塊――どうやら雑巾ではなかったらしい――をそっと床に下した。
「おはよう一海くん。この子、ゆうべうちにお泊りしてたみたいなのよ」
「子……? ああ、猫、だったんですか。俺、雑巾かと思って。急に動くからびっくりしましたよ」
雑巾と言った途端、白猫が低くうなる。まるで、一海の言葉に酷く傷ついたと訴えているかのようなタイミングで、一海はまたぎょっとした。
「雑巾だなんて酷いわよねぇ、こんな美人さんつかまえて。ただちょっと雨のせいで汚れちゃっただけよねぇ」
李湖はくすくす笑いながら猫をなでた。
「隙間を見つけて、自分で開けて雨宿りに入って来たのよね。お利口さんよねぇ……どこかで飼われていた猫なのかしら。人慣れしてるし、大人しいし。でも首輪が付いていないのよね……」
前半は猫に向けて、後半は一海に向けての言葉だ。だがその口調にあまり危機感がないので、一海は安堵とともに一抹の不安も感じる。
「そんな、不用心じゃないですか。この辺だってたまに泥棒が出るのに。入って来たのが猫でよかったですよ」
つい責めるような言い方になってしまう。
「ほんとね、戸締りには気をつけなきゃだわ。猫さんも雨も入っちゃうし」
李湖は笑いながら猫をもうひとなでして、手を洗うためにシンクへ移動した。
「あ、いやその、俺も気付かないでごめんなさい。ゆうべ一度目が覚めた時に猫の声が聞こえてたんだ。その時に俺が閉めていればよかったんだけど……」
「閉めてたら猫さんが困ったかも知れないわよ。でも不用心よね。今度から猫さんには雨宿りできる所を作っておいてあげましょう」
笑顔でそう言われて、一海はほっとする。
「じゃあ俺、なんか使えそうなものあとで探しておきますよ」
白猫は、床に敷かれた使い古しのタオルの上にちょこんと鎮座して、鼻をこすりつけるようにしてその匂いを確かめている。人間が自分の話題を交わしていることなど理解できないだろう。
毛づくろいを始めた猫を見ながら一海はリモコンを手に取り、もう片方の手で椅子を引く。テレビをつけると、今朝もアナウンサーが深刻そうな顔をしていた。
「え、また市内で事故があったんだ?」
「あら、ゆうべ救急車の音が聞こえてた気がしたけど、それかしら? 救急病院ってここよりもっと東の方だから、通る可能性はあるわよね」
ピザトーストの皿を一海の前に置き、李湖もニュースを観るために椅子に腰掛けた。
「そうですね。まあ事故じゃなくても、あの病院に行く救急車は結構いるし……ってか、この現場、どっかで見た気がするんだよなぁ」
一海がそう言った途端、細いビルが二棟並んで建っている場所をバックにして、若いリポーターの現地中継が始まった。
一海は思わず立ち上がって画面を指差す。
「あああああ! これ! チェシャーの近所ですよ! ってか――」
寧々さんの探偵事務所のビル、と続けて出そうになった。しかし李湖はニュースの中継を食い入るように観ていて、一海が何を言い掛けたのかには気付いていない。
一海は多少の気まずさを感じながらそっと座り直す。
「そうなの? ここって、昨日の事故とすぐ目と鼻の先の距離だったのね。嫌ぁねぇ……こういうのって、続くから」
「続く? そういうものなんですか?」
一海はトーストを二つに裂きながら問う。
「呼ばれる、なんて言い方をする人もいるけど。よく調べてみると、信号のタイミングが悪かったり、街路灯がちかちかしてドライバーの気が散っちゃったり、っていう原因があったりするんだって」
「へぇ、そうなんだ……そういや、ゆうべも一昨日も雨が結構降ってたみたいだし、あの辺ってなんかあるのかなぁ」
テレビ画面の中では、リポーターが昨日のニュースと同じような場所で同じような説明を始めるので、一海はデジャヴュかと思いながらニュースを聞いていた。
昨日はまったく見知らぬ場所に見えてた事故現場が急に身近に思われ、あの辺りで事故が起きていたというのが不思議でならない。
李湖はニュースを気にしながら自分の朝食を用意しに席を立つ。
猫は毛づくろいをしながら、時々一海たちやテレビを興味深そうに見つめていた。
* * *
登校してから一海が耳にするのも、ほとんどが事故の話だった。
もれ聞こえて来る話で判断するに、どうやらあの近所にはアーケード街の外にもちょっと有名なラーメン屋や、女子が好きそうなブティックなどが数件点在し、多くの生徒が一度は訪れたことがあるらしい。
鳶田も先々週行って来たと自慢していた。誰となのかはあえて訊かない。
「なあなあ、なんで訊かないんだよぅ。訊いてくれよう」
「うるせーよ。何が悲しくてお前の誘い受けノロケの相手をしてやんなきゃなんねーんだよっ」
一海はそう言うと、ノートで鳶田の頭を軽くはたく。それでもニヤニヤしているのが憎らしい。
「あの辺、なんか雑貨屋さんあったよねえ。かっこいい店長さんがいるエスニックな店」
近くの席の女子たちから、そんな話が聞こえて来た。
いつもなら女子のそういった話には興味を持たないが、エスニックと聞いてつい一海は聞き耳を立ててしまう。
――多分それ『チェシャー』のことだよな。そういや、寧々さんたちはどうしてるんだろうなぁ。
一海はつい連想する。寧々は探偵だから、いや、そもそもなんにでも首を突っ込みたがりそうな性格みたいだから、現場検証の邪魔をしたりしていないだろうか。
チェシャーの店主、月光は逆に騒がしいのを嫌って臨時閉店しているかも知れない。
一海は月光の憮然とした表情を想像して、思わず微笑みそうになる。
『寧々さん
おはようございます。一海です。
そっち、騒がしくないですか?
大丈夫ですか?』
思いつきで、短いメールを送ってみる。
そういえばゆうべのお休みメールに返信してなかった――と、後から思い出し、追加のメールを打とうとしたところに返信が来た。
「寧々さん、早っ……」
驚きつつ開くと、『おっはよーん』という能天気な挨拶に、また絵文字がいっぱい貼られたメールになっていた。
赤やらピンクやらのハートが散りばめられていたせいで、鳶田に覗き込まれそうになる。
鳶田を牽制しながら解読すると、どうやらゆうべは飲みに行った店の近くで雨宿りついでに寝たらしく、今日はまだ事務所に行ってないので様子は知らない、とのことらしかった。
「雨宿りついでに寝るって、どんだけ自由なんだよあの人」
繁華街ならネットカフェや二十四時間営業のファミレスもあるので、そこでだらだらと過ごしていたのだろう。その自由気ままな様子を想像するだけで、一海はくすっとする。
「んにしても、担任遅くねえ?」
同じく携帯電話をいじっていた鳶田が一海に問い掛けた。
「そうだね、いつもならもうとっくにホームルームが始まっててもおかしくないんだけどなぁ」
同じことを思っていた生徒は他にもいたらしく、ざわざわしつつも時々扉の方を気にしている。
「事故に遭ったのって、ここの生徒だったっけ?」
「それだったら、全校朝会で体育館に呼ばれんじゃねーの?」
担任だけではなく、職員の誰も何も連絡しに来ない。
もう授業が始まるという時刻になった頃、ようやく校内放送が掛かった。
一時限目は全学年ホームルームに変更されるということを、生徒たちはその時に知ったのだった。