プロローグ ありがちな独白とVRな夢
雨が降っていた。
絶え間なくヘルメットを叩く雨音と、断続的な対向車のヘッドライト。
様々なタイヤが跳ね上げるたびに起こる水音と、雨粒に邪魔されながらも行く先を照らし続ける光。
そして愛車の控えめな排気音。
* * *
――あ、これ、夢だ……
一海は夢の中でそう自覚する。何故なら、一海自身はバイクの免許を持っていないからだ。
だが、『夢の中の自分』は、まるで身体の延長のようにバイクを扱っている。
どうやら一海よりかなり年上の、しかも喫煙者らしい。ヘルメットの中に、うっすらと煙草のにおいが沁みついているのを感じた。
一海は不思議な気分だった。自分は煙草を吸ったこともないし、バイクの運転すらも知らない。なのに、ここまでリアルな夢を見られるとは思わなかったのだ。
自分自身が別人になりきっている夢は時々見るが、これは少し違うようだった。
例えるならVRディスプレイでテレビドラマを観ているような。心の声のようなものも感じるが、一海自身のものではないようだ。その辺りも、ドラマのように感じる要因だろう。
バイクの操縦も、ひょっとしたらドラマで観たものの再現なのかも知れない。
――なんだ……つまり夢がVR化してるってことかな。寝る前に格ゲーしてたせいかなぁ……
夢だと理解して、しかもどこか他人事のように感じられたことで、バイクの臨場感はそのままに、一海は『夢の中の自分』の独白をぼんやりと聞いていた。
* * *
ヘルメットにもワイパーが欲しいと思う。
多少の雨でも普段は気にならないのに、今はこの状況から早く解放されたい……そればかり考えている。とにかくすべてが鬱陶しい。
ここ数日間、クライアントも作業員たちもピリピリしていた。
連日ほぼ徹夜の作業が続いていたのだから無理もない。換気を繰り返してもすぐに白煙が籠る。ストレスのせいで皆煙草の本数が増え、他人の煙草の煙のせいでまたストレスを感じる。
作業しながらの食事は何を食べても味気なく、咀嚼するエネルギーを思うとドリンクとサプリメントの方が精神的にも負担が少ないんじゃないか……と考えながら、毎日をやり過ごしていた。
ちょっとしたミスでヒステリーを起こすサブマネ三十代女子の烏丸。
上の人間がいる時には調子いいことばかりを言うくせに、作業中には「もうこれ駄目じゃね? みんなでごめんなさいしちゃおうぜ?」と弱音を吐いては、自分だけちゃっかり休憩を取る古森先輩。
彼らに特に辟易していたのは、俺だけではないだろう。
しかしそれも今日でようやく終わった。
所長がささやかな慰労会を催してくれた。疲れをにじませた目尻にしわを作って、所長が乾杯の音頭を取る。
所長自身、もう若くない身だというのに、所員や外注の若い者たちに混ざり徹夜作業をした。そんな大詰めだった。
この人の下だからこそ、俺たちはつらいスケジュール変更でも頑張れたのだと思う。
事務所で寝てから帰る者や電車通勤の幾人かは、所長のおごりと聞いて遠慮なくビールの缶を空けて行った。
俺は付き合いでウーロン茶を二杯飲み干すと、雨避け用のゴミ袋に洗濯物のバッグを突っ込み、互いをねぎらう挨拶もそこそこに、一足先に退散させてもらう。
雨だろうが疲れていようが、自分の部屋に辿り着き、自分のベッドで最低でも半日は泥のように眠りたい――ただその一心だけでバイクを走らせている。
家まではバイクで約三十五分。通勤ラッシュなら一時間だが、そろそろ深夜に入る頃なので運がよければ二十分くらいで帰宅できる。
街の外側を環状に囲んでいる高速道路。その下の道をひたすら走り続ける。
何度目かの信号待ち。黒っぽい小動物が太い橋脚の陰から躍り出て、横断歩道を走り抜ける。
追われるように去って行く姿を見送り、三つ先の信号まで順次青に変わり行くのを確認しながら、またアクセルを開く。
狸かイタチか……何にせよ、奴らもこんな雨の日は早く巣に帰りたいに違いない。
次の信号に差し掛かった時、今度は何かがこちらに向かって飛んで来た。それを追うように、白い生き物がどこからか急に現れ、横断歩道を駆ける。
思わず一瞬ブレーキを掛けてしまった。
横滑りし始めた車体。制御しようとハンドルを切るが、たっぷりと水が張られた道路の上では言うことを聞かない。
「くそっ」
歯を食いしばり、必死で体勢を立て直そうとする。だが、耐え切れないようにバイクの甲高い悲鳴が聞こえる。
後続車のクラクションが耳障りなまでに響く。
スローモーションで地面が近付いて来る――それに続くのは鈍い、でも重い衝撃。
――睡眠不足で判断が鈍ったか、雨で発見が遅れたのか……後悔先に立たずだ。
意識を失う直前に、無事道路を渡り終えた白い生き物を確認した。
それだけはせめて、幸運だと……思う……
* * *
そして視界が暗転する。