098.彼女
個室風呂は、大浴場と同じ階下にあったが、場所は違っていた。
受付の前で説明を受けてから、庭に出て、細い廊下伝いに歩いていく。
「まるで、資料で見る日本のリョカンみたいですね」
「そうか」
アキオはリョカンなるものを知らない。
彼が物心ついた時には、日本は海の底だったからだ。
店側の説明によると、瑪瑙亭の風呂は、一般的に使われるメナム石ではなく、ガトビという作物の皮を燃やして湯を沸かしているらしい。
水の温め方も、風呂釜で直接湯を沸かすのではなく、溜めて沸かした湯を流し入れるボイラー方式のようだ。
少々寒い地方でも、貴族以外は水浴びが一般的なこの世界では、かなり珍しい。
「ねえ、アキオ」
カマラがアキオの手を引いて先に歩きながら言う。
「ご主人の最後の『それでは、お励みください』っていうのはどう意味でしょう」
「ゆっくり湯につかれ、ということだろう」
「そうかしら。何か違う意味があるような――」
「着いたぞ」
アキオは、庭にいくつか並んで建つ、木造りの小さな小屋の前で立ち止まり、行きすぎようとしたカマラを止めた。
扉を開けると中から湯気が吹き出す。
「いいですね」
中をのぞいたカマラが嬉しそうに言う。
小屋の内部はそれほど大きくない。
部屋の半分に木製の浴槽が設えられ、入口に服を置く棚がある。
脱衣場所と浴槽に仕切りはない。
内部は、メナム石の柔らかい光に照らされていた。
普段のコクーン内の風呂場とはまた違った趣がある。
アキオは湯加減を見ると、さっさと服を脱いでかかり湯をし、湯につかった。
身体を伸ばす。
湯舟は彼が身体を伸ばせる充分な広さがあった。
「どうした」
まだ服を着たままのカマラに尋ねる。
少女は、しばらくモジモジしていたが、意を決したように言う。
「少しの間、目を閉じてください」
「わかった」
アキオが目を瞑ると、ささやかな衣擦れの音がし、かかり湯の音がして、カマラが抱きついてきた。
首に手を回す。
「もう目を開けてもいいです」
「どうした」
普段とは様子の違うカマラに尋ねる。
「だって……見られると恥ずかしい」
「そうか」
言いながらアキオは考える。
幼少期から始まったカマラの急速な精神的成長が、やっと思春期に追いついたのかもしれない。
いずれ反抗期に入って、彼に反発をするのだろうか。
どちらも知識として知っているだけで、彼自身には経験がないためにわからない。
「アキオ」
カマラが彼の上に乗るように抱き着く。
柔らかな胸が当たった。
「これは恥ずかしくないのか」
アキオが素朴な疑問を口にする。
「恥ずかしいけど……これは良いんです。気持ちいいから」
「そうか」
しばらくそのままでいたあと、
「アキオ」
カマラが彼の耳に口を寄せて囁くように言う。
「最初に、怒らないって約束してください」
「怒ったことはないと思うが」
「いいから約束して」
「怒らない」
「ずっと迷っていました。アキオに尋ねたら困らないかって、いいえ、あなたが傷つかないかって――でも、わたしはどうしても知りたい。だから教えて――」
カマラは真剣な表情になって続ける。
「彼女のことを」
「カマラ――」
「わたしが、あなたと会ったのは、出会えたのは、彼女を収めたコフが、わたしの洞窟近くに落下して来たから。だから、彼女には感謝しています。毎日が単調だったわたしの、本当に最初の記憶は、あなたがゴランから救ってくれたこと、あなたが重いコフを引いてジーナに戻るのについて歩いたこと」
カマラはアキオをきつく抱きしめる。
「でも、コフの中の彼女は――」
「カマラ」
ぱっと、顔を上げ、少女は祈るような眼差しで彼を見つめる。
「教えてください。怖くはありませんから。教えてもらえたら、もっとアキオの手伝いができると思うから」
「しかし――」
「お願いします。アキオ……アキオ」
アキオは、青ざめるほど真剣な表情のカマラを見た。
じっと見る。
やがて――
彼は、少女の銀の髪に触れ、何度もそれを撫でた。
「わかった。話そう――だが、ここでいいのか」
「お部屋でうつむいて話を聞くより、ここの方がいい」
「そうか」
そう言って、ポンと少女の頭を優しくたたくと、アキオは、これまで触れなかった彼女について話し始めた。
「お客さま、そろそろお時間でございます」
小屋の扉が軽く叩かれた。
「わかった」
それに応えたアキオは、彼に抱きついて、滂沱の涙を流す少女の頬に触れ、言う。
「もう泣くな」
「だって、だって……ひどすぎます。悲しすぎます!」
「もうずっと前の――300年近く前のことだ」
「でも、アキオは、いまだにそのことで――いえ……わかりました」
カマラは手で涙をぬぐい、無理やり笑顔を浮かべる。
「過去は過去、ですね。これからできることを考えましょう」
「そうだ」
部屋に帰ったカマラは、言葉少なに自分のベッドに入る。
だが、アキオが横になり、メナム石の明かりを絞ると、やはり、彼のベッドに忍び込んで来た。
例によって服は着ていない。
「これは恥ずかしくないのか」
「恥ずかしいです。でも、アキオとは、初めて会った時からこうだから」
そういって、アキオのシャツのボタンを外し、裸の胸に抱きつく。
脚を絡める。
アキオはやれやれと首を振ると、手が下に行かないようにカマラの肩を抱いてやる。
「アキオは、どうして、お腹とか……お尻とか触ってくれないのですか」
「君がもっと大人になったらな」
とりあえず、そう逃げておく。
「わたしは大人です」
「子供は皆そういう」
「子供扱いしないでください」
そう言ってから、カマラは消え入るような小さな声で続ける。
「わかっています。わたしが、この間まで言葉も話せなかった赤ちゃんだったのは……でも、今は随分大人になりました」
「そうだな」
アキオは微笑む。もともと身体はほとんど大人だったのだ。
「アキオ……」
しばらく黙り込んで、カマラの温もりの心地よさに、彼がうつらうつらし始めた時に少女口を開いた。
「もし、わたしが、わたしたちが死んでも、彼女のように思い出してくれますか」
「何をばかなことを」
「聞いているのです。ちゃんと答えてください」
「思い出すさ」
「そう――そうですか。良かった……忘れないでくださいね」
「お前は――俺が名付けた。忘れるはずがない」
彼の言葉に安心したように、少女は静かな寝息を立て始める。
「アキオ」
少女の寝顔を見ていると、ミーナに小声で呼ばた。
「待ってくれ」
彼はインナーフォンをつける。
「いいぞ」
「カマラはもう寝たの」
「ああ」
「慣れないザルドに乗って疲れたのね」
「そうだな」
「何か変わったことは」
「カマラに話した」
その言葉だけで、ミーナは事情を理解する。
「――そう……泣いた?」
「少しな」
「大丈夫。事実を知ったら正しく受け止める子よ」
「心配はしていない――それで?」
ミーナが、からかい目的以外で夜中に声をかけてくるのは何かあるからだ。
「また太陽フレアが発生しそうなの。明日の朝から3日ぐらい」
「そうか」
「今現在、共有しておく情報はある?こちらはないけど」
「ないな。お前が聞いていた以上のことはない」
「興味本位で盗み聞きしてるみたないいかたね。心外だわ」
ミーナが笑う。
「明日、農場で種と苗を受け取って帰るだけだ。遅くとも明後日には着くだろう」
「分かった――アキオ、気をけてね。そして、やさしくしてやって」
「了解だ」
ミーナとの通信を終えて、アキオは、胸の上の銀髪の少女を見た。
ピアノやキイなら、今の会話で目を覚ましただろうが、カマラはあどけない寝顔で、可愛い寝息を立てているだけだ。
少女の頭を撫で、唇に指を触れる。
思いついて、犬歯に触ってみた。
当たり前だが、シミュラのような牙はない。
「う…ん」
いきなり、甘噛みされて驚く。
起きたのかと思ったら反射行動のようだった。
悪戯が過ぎたようだ。
アキオは苦笑しつつ、彼女の頭を抱くと明かりを消した。