097.遊歩
何人かは、声の聞こえた方角へ走っていく。
だが、アキオもカマラも、騒ぎのあった方角を見ようともしなかった。
彼は、街によくあるイザコザに過ぎないと考えているし、カマラにとっては、アキオと並んで街を歩いているという、その事実だけが重要で、あとのことはどうでも良かったからだ。
アームバンドで時刻を確認し、アキオは東の空を見上げる。
宿の主人が出がけに教えてくれた、アートクスという花火に似た催しが、もうすぐ始まるのだ。
なんでも、街のすぐ近くの荒野で、数人の魔法使いのコンビネーションのもと、色と性質の違う火球を打ち上げて、その美しさを鑑賞するのだという。
アキオが初めて目にする魔法の平和利用だ。
実のところ、アキオは花火というものが好きではない。
夜空を切り裂く光は、長らく彼にとって、30発に1発の割合で挟まれる曳光弾の光であり、暗視装置に浮かび上がる夜間ミサイル攻撃の噴射炎だったからだ。
つまり、闇夜の光は自分を攻撃する敵だ。
だが、そんな記憶はカマラには関係がない。彼女にとって、花火は夜空を彩る安全で美しい光に過ぎない。要は、彼がそんな異常な記憶を封殺すればよいのだ。
もう少し先の円形広場に出た方が、綺麗に見えるだろうと、アキオが歩調を早めようとして――突然、立ち止まったカマラに引き留められる。
「どうした」
振り返ったアキオは、少女が、ある方角をじっと見ていることに気づいた。
視線をそちらに向けると、馬車が車軸を折ったのか、斜めに傾いで停まっていた。
そして、それを取り巻くように、大勢のやじ馬たちが集まっている。
先ほどの騒ぎはこれが原因らしい。
どうやら、地面と馬車の間に誰かが挟まれているようだ。
だが、カマラが見ていたのは、事故そのものではなく一人の幼い女の子の姿だった、
その幼女は、小さな体で馬車を持ち上げようとしていた。
だが、馬車はすでに十人以上の男たちが持ち上げようとしているため、彼女の入り込むスペースはない。
街の外なら、強化魔法の使える魔法使いに頼めば簡単なのだが……
男たちは、思うように作業が進まないことにいらつき、また危険ということもあって近づく幼女を突き飛ばして怒鳴りつけている。
「こっちへ来るな。邪魔だ」
アキオは幼女を見た。カマラを見る。
「怪しまれないだろうな」
ポンポンと少女の銀色の頭を叩いたあと、そう言って馬車に近づいていく。
「大丈夫。あなたは元服役囚じゃないから」
背中に投げかけられるカマラの言葉にアキオは苦笑する。
まさか、カマラからそんな言葉が返ってくるとは思わなかったからだ。
あらためて、少女が地球文化に通暁していることに驚く。
地球文学の傑作のひとつ、レ・ミゼラブルのジャン・ヴァルジャンは、服役囚であった過去を隠して市長となっていたが、事故を起こした馬車を持ち上げ、人を救って捜査官に目をつけられる。
その話をアキオは彼女に教えられた。
人の作った法や軍規より重要な、道徳や愛情、寛容が世の中に存在する例として――
だが、彼には、まだそれを本当の意味で理解できてはいない。
「来るなって言ってるだろうが」
何度目かの拒絶のあと、幼女は勢いよく突き飛ばされ、地面に転がりかけた。
「あ」
暖かく大きな手で受け止められ、とん、と地面に立たされた幼女は、彼女を助けた人を見た――見上げた。
彼女にとってその人は、そびえるように大きな黒い人だったからだ。
「どいてくれ」
黒い人が言った。
決して大きな声ではなかったし、命令するような言い方でもなかった。
だが、そのひと声で、馬車をつかんでいた男たちは一斉に手を放す。
離したところで、馬車は揺れもしない。
どれほど力をいれても、ケルビの引く巨大で荷物を満載した馬車は半トクル(0.75センチ)すら上がっていなかったのだ。
その人は、地面に膝をついて幼女を見た。
「知り合いか」
馬車に挟まれて動けない男を示して言う。
「おとうさん」
「助けたいか」
「うん」
「では、手伝え」
黒い人は、幼女に馬車を持たせた。
「上げるぞ、力を入れろ」
幼女は、力の限り馬車を持ち上げた。
「おおっ」
やじ馬から、どよめきが上がる。
幼女が持ち上げるにつれて、軽々と馬車が上がったからだ。
その瞬間、空に光が走った。
アートクスが始まったのだ。
幼女は黒い人を見上げ、目を大きく見開いた。
彼女の目には、アートクスの光と黒い人が重なって、夜空の美しい光をまとった人間ではない何者かに見えたのだった。
「おろすぞ」
馬車がゆっくり降ろされる。
振り返った幼女は、父親が、銀色の髪の、見たことがないほど綺麗な女の人に介抱されているのを見た。
「行ってやれ」
「お父さん!」
アキオは、彼が馬車を持ち上げている間に、カマラが支えになる頑丈な木箱を馬車の下に差し入れるのを見ていた。
これで、折れた車軸の交換も速やかに行えるだろう。
「どうだ」
今まで泣かなかった幼女が、抱きついて号泣している男に近づき、傍にいるカマラに尋ねる。
「うまく地面の穴に入り込んでいたため、軽い打撲ですんだようです」
少女が説明する。
「ナノ・マシンは」
「必要ないでしょう」
「そうか」
「ありがとうございました」
男が呻きながら、身体を起こす。
「礼はいらない。礼なら――」
アキオは膝をついて娘の肩を叩いた。
「この子にいえ。お前を助けたのは彼女だ」
そう言って立ち上がり、歩き出そうとする。
「お待ちください」
男の身内らしい若者が声を掛ける。
「お助けいただいた方を、そのまま行かせるわけにはまいりません」
「いや……」
アキオが断ろうとしたところへ、背後から声がかかった。
「そんなこといわないでさ。せめて一緒に飯でも食っとくれよ」
振り向くと、大柄な中年の女性が腕を組んで立っていた。
聞くと、この馬車は、街郊外の農家のものだそうで、今日、シュテラ・ザルドから帰ってきて、これから街のバルトを借り切って宴会をする予定だそうだ。
「怪我人がいるだろう」
「あいつは大丈夫だよ。ほら、もう立ってるじゃないか」
少し足を引きずっているが、男が幼女の手を引いて、こちらにやってくる。
「わたしは大丈夫です。車輪が穴にはまったので、様子を見ようとして車軸が折れたなんて、まったくお恥ずかしいミスです。そんなことで、農場の全員が楽しみにしている宴会を中止にはできません。ぜひ、おいでください」
そう言って、自己紹介をしていなかったことに気づいたのか、
「わたしの名はエルド、街郊外のシャルレ農場の主です。どうか、おいでください」
「息子もそういってるんだし、おいでおいで」
アキオはカマラを見る。
少女は困った顔をしていた。
それは当然だ。カマラは、アキオの少女たち以外の人間と親しく交わったことがないのだ。
アキオの脳裏に、言葉も話さず、たった独りで最低限の食事をとっていた少女の姿が甦る。
「世話になる。俺はアキオ」
そういって、少女を引き寄せ、
「カマラだ」
「さあ、どうぞ」
アキオとカマラは、近くのバルトに案内された。
彼が手をつなぐと、不安そうな少女は安心したように微笑む。
アキオがそばにいる限り何の心配もいらない、とでもいうように。
馬車は、すでに農場の男たちの手で車軸が交換され、とりあえず動くようになったとのことで、バルトの庭へむけて移動し始めている。
「しかし、力が強いね、あんた」
助けた男の母親、実質的な農場の責任者であるメイヴィスがそういって酒をすすめる。
彼が酒を飲み干すと、
「酒にも強いじゃないか」
アキオは、自分が辺境からやってきた農家で、種と苗を買い付けにきたのだと説明した。
「なんだ、同業かい。そんな風には見えないがねぇ。種と苗なら、うちにあるから持って帰りなよ」
そういった話の流れで、アキオは、明日の朝、街の壁近くのシャルレ農園に向かうことになった。
「えー、新婚なの」
突然、バルトに悲鳴のような声が上がる。
カマラの周りで、傅くように飲み物や食べ物を運んでいた若者たちが発した血の叫びだ。
「そうか、新婚か、いいなぁ」
「どうやって知り合ったの」
「農場で働いているうちに、いつしか二人の間に……」
「皆さん。もうやめてください――」
彼らにからかわれて頬を染める少女を、アキオは目を細めて見ていた。
少女は、カマラは、もっと多くの人と触れ合って、人間としての喜びと楽しみを感じるべきなのだ。
そして、それは、人として欠けている自分では決して与えることができない――
「大事にされてるね、あの子」
アキオの表情をみてメイビスがつぶやくように言う。
「ああ、幸せになってほしい」
「あんた、恋人、旦那っていうより、父親みたいに見えるけどね――ああ、ごめんよ」
「いいさ」
ふたりは、食事を終えて、皆にひやかされながらバルトを後にした。
まだ、それほど遅い時間ではない。
「酔いました」
カマラが囁くようにいって、彼にもたれかかる。
アキオは苦笑する。ナノ・マシンが体内にいる限り、悪酔いすることはない。
以前、キイが宿酔気味になってから、ナノ・マシンのアルコールとアセトアルデヒド分解機能は強化してある。
しかし、あえてアキオはそのことには触れず、
「酔いざましにしばらく歩こう」
そう言って通りを歩きだす。
大市の開催日ではないが、農業特化の街らしく特定作物の収穫シーズンは、今夜のように賑わいを見せるようだ。
通りには様々な屋台が軒を並べていて、アキオはシュテラ・ミルドの街を思い出す。
「あ、アキオ。今、シュテラ・ミルド、ユスラさまを思い出していましたね」
「なぜわかる」
アキオは素直に驚く。
「わかるんです」
つんとしてそう言った後、カマラはアキオに抱きついた。
「今夜は、わたしに集中してください、ね」
「努力する」
「約束ですよ――あ、あれはなんでしょう」
そういって、屋台の店先で七色に輝くアクセサリーへ向かってカマラは走っていく。
「まるで、子供ね」
ミーナの笑い声が響いた。
「よく、今まで黙っていたな」
「だって、ふたりの邪魔したくなかったもの――マドレーヌ市長……起重機のジャン」
AIは、ジャン・ヴァルジャンの偽名で彼をからかう。
「もう少し黙っていろ」
「了解――」
その後は、地球のハンマー・ゲームに似た力試しの装置で、うまく力をセーブして鐘に当てたり、冷えた果物を食べ歩いて、ふたりは街を遊歩する。
カマラがもっとも喜んだのは、意外なことに、単純な機械仕掛けの予言人形だった。
「アキオ」
踊るようにくるりと回って、カマラが後ろから抱き着く。
「なんだ」
「今夜はありがとう。わたし、たぶん一生分楽しみました」
アキオの背にカマラが囁く。
「君の人生はこれからだ」
「そうでしょうか……でも、本当にありがとう、アキオ」
そう言って、頬を背中に当てる。
少女の温もりがアキオに伝わって、彼の心に、彼自身理解できない何かを残していく……
宿に帰ると、カマラはアキオに少し待つように言って部屋を出て行った。
「驚いたわ。カマラって、あんなに明るく笑う子だったのね」
ミーナが言う。
「――そうだな」
「あなた、自分じゃダメだって思っているでしょう」
「どうかな」
「それは違うわよ。彼女があなたじゃないとダメなのよ」
アキオが口を開こうとしたとき、カマラが戻って来た。
「さあ、アキオ。お風呂に入りましょう」
「わかった」
「一緒に入るのですよ」
「どういうことだ」
「あらかじめ、個室風呂を予約していたのです」
アキオは手続きの後、カマラが遅れてきたことを思い出す。
「さあ、行きましょう。新婚は一緒にお風呂に入るものです」
そういって、引きずられるようにアキオは階下の浴場に連れていかれるのだった。