008.沙法(ナノクラフト)
それからミーナによるカマラの教育が始まった。
現実問題として、データをダウンロードして脳に転写、などという便利な方法は存在しない。
濃縮編集された画像を見て、質問集に応え、応用編としてミーナと会話する、という地道な教育方法だ。
もちろん、脳はナノ・マシンによって、最大限に活性化されており、一度見た情報は、ほぼ忘れることがないため、学習効率は悪くない。
かつて、アキオは軍にいたころ、言葉の通じない異国に送り込まれ、情報収集を命じられたことがあった。
その時は二週間ほどで日常会話に支障がなくなったのだが、ナノ・マシンの補助がある今なら、半日でそのレベルに到達できるだろう。
ちなみに、帰還してすぐに、カマラの髪は銀髪に変えてある。
よもやカマラを探しはしないと思うが、彼女の行方を追って洞窟から捜索者がきてはいけないからだ。
何色がよいかと尋ねると、躊躇なく少女は白がいいと言ったのだった。
当然のように、毎晩、カマラはアキオの部屋にやってきて一緒に眠る。
始めのうちは、やめさせようとしたアキオだったが、キューブを捜しに出るまでの数日のことだと考えて、今は少女の好きにさせている。
ミーナは甘すぎると怒っていたが……
カマラの教育はミーナに任せ、アキオはデータ・キューブを回収する旅に出るための準備をしていた。
さいわいにして、コフは回収できたが、データ・キューブがなければアキオの研究も進まないのだ。
一日も早くキューブの回収に出たいのだが、この世界には、怪物や魔法など、得体の知れないものが跋扈しているため、それなりの備えが必要だった。
キューブまでの距離も、おおよそ300キロとは分かっているが、実際にどれぐらいの期間、行動することになるかわからない。
キューブに追跡ビーコンをつけていなかったのが悔やまれる。
旅の途中で、現地の人、文化にも出会うだろうから、それらについても対処が必要だ。
いずれにせよこの世界で研究を続けるためには、言葉を覚え、社会にも関わらなければならないから、旅先での現地人との交流は避けられない。
一方で、アキオは元の世界に戻る必要性はまったく感じなかった。
あの世界に未練はない。人にも物にも文化にも。
アキオにとって、研究を続けることができれば、どこにいても同じだ。
今現在、アキオが、取りかかっている作業は――
主に、ナノ・マシン・フォー・コンバット、戦闘用ナノ・マシンのブラッシュ・アップ(性能向上)と、この星に合わせたナノ・マシンの設計だ。
加えて、この世界にある不思議な現象、便宜上『ウイッチクラフト(魔法)』と呼ぶことにする、の研究も行う。
カマラの承諾を得て、ジーナの検査機器を使って彼女の体も検査した。
その結果、洞窟でナノ・マシンを使って調べたのと同様、カマラとアキオの身体構造にほとんど差異はなかった。
「ほとんど差異はない?ということは、何か違いはあるんだな」
ミーナの報告を受けたアキオが尋ねる。
「ええ、アキオがブラック・ドッグの解剖時に見つけたという心臓裏の突起がカマラにも存在するの。これは地球人類に無いものね」
「あんな小さな突起が、あの不思議な現象を起こしているというのか」
「そこまではわからない。でも、あの突起には、脊椎から神経線維がつながっているの。何かあると考えるのが普通ね」
その後、カマラに、センサーを配置した小型実験室内で魔法を使ってもらった。
以前に見たように、彼女の前方に複数の火の玉が突然発生する。
「よし、そのまま炎を消してくれ。ジーナが破損すると困る」
アキオの言葉にカマラはうなずき、炎は消える。
「凄いわ、アキオ。何もないところから、人間の力だけであんな高温の炎が生まれるなんて――」
数値を確認すると、炎の中心温度は1200度。カマラと炎をつなぐ物質は検出できず、炎が燃える材料も発見できなかった。
部屋の中の空気組成は何も変わっていなかった。あの炎は、部屋の酸素さえ消費していなかったのだ。
「こいつは不思議だな」
「これこそ、ウイッチクラフト(魔法)ね」
ちなみに、カマラにどうやって炎を出しているかと尋ねたところ、この辺りに、あいつらをやっつけるモノが欲しい、と考えたら炎が発現したらしい。
あのブラック・ドッグとの戦いで初めて使ったそうで、犬が白い光を出したのなら、自分は赤い光を出そう、と考えたらしい。
「カマラの話は参考にならないな」
「もう少し、科学知識と会話能力が向上したら何らかの進展があるかもしれないわ。それとねアキオ」
「なんだ」
「これを見て」
ミーナが自分のアバターのディスプレイの一部にサブ・ウインドウを開いた。
「これは?」
「胸部の突起の立体映像よ。何かに似ていない?」
「おい、これは、まるで――」
「そうウオーター・ベア、つまりクマムシにそっくりなの。ヤマクマムシにね。サイズは桁違いに大きいけど」
クマムシは、緩歩動物の一種で謎の多い生き物だ。もちろん、元の世界でのことだが。
紫外線などの有害宇宙線だらけの真空中でも生存し、高圧の深海でも死なないクマムシは、まさしく魔法生物とも呼ぶべき生き物だ。そのあまりの強靭さから、体の中心が高次元とつながっているのではないかという異説まで飛び出すほどだった。
また、その体内に20パーセント近い外来DNA、つまり外部から取り込んだ遺伝子情報を持つクマムシは、DNAのキマイラでもある。
「あの突起がクマムシに似ているのか――」
「アキオはクマムシ次元生物説を考えているの」
「いや、可能性があるというだけさ。あの考えは、元の世界でも一笑に付されたものだからな。しかし、クマムシは『水平伝播』つまり親子の遺伝ではなく他の生物のDNAを直接取り込んで自分のものにする生物だ。この他世界の、俺たちの知らない生き物から『未知の遺伝子』を取り込んでいたら……この世界の『ウイッチクラフト(魔法)』に説明がつくかもしれない」
「この世界の生き物は、クマムシを他の生物の遺伝子カプセルにして身体に取り込んで、その生き物の能力を使っているということ?もしそれが事実なら、その元となった生き物は、無から有を生み出す凄い生物ね。心臓部がディラックの海につながっているのかも」
「ディラックは『場の量子論』に吹き飛ばされただろう?とにかく、今の考えは飛躍のし過ぎだ、ミーナ。あまり空想に走らずに、地道に、俺が留守の間も研究と考察はつづけてくれ。例のランタンの解析も頼む」
「留守?――もう出かけるの、アキオ?」
「ああ、そろそろ行かないとな。お前もキューブがないと研究できないだろう」
「ウイッチクラフトの対処もできていないのに」
「ナノ・テクノロジーと手になじんだ武器で何とかなるさ」
「向こうがウイッチクラフトなら、こっちはナノクラフトで対抗するのね」
「ナノクラフト?」
「そう、ナノ・テクノロジーを使った魔法、ナノクラフト。魔法がウイッチクラフトだから――それとも、ナノは10のマイナス9乗、仏教用語で『塵』だから『塵法』でもいいわね。ちなみに、わたしが考えました」
「正確にいうと、俺たちのナノ・マシンは1単位が10ナノメーターのサイズだがな」
「じゃあ、10のマイナス8乗ね。仏教用語では『沙』だから、『沙法。こっちのほうがいいかな』
「ナノクラフトにしておこう。広めようとは思わないが」