079.太歳
『アキオ』
耳元でミーナの声が聞こえる。
目を開けると、身体を取り巻いていた触手がプールに戻っていくところだった。
『心配したわ。いま71時間を回ったところよ』
『アキオ!』
少女たちの声が響く。
「心配をかけたな」
『どうだったの』
アキオはいつものように手際よくミーナに説明する。
『なんてこと……』
話し終えると、ミーナが絶句した。
『イニシエーションを使って人間を太歳、視肉にするなんて』
『視肉とはなんです』
『わたしたちの地球に伝わる――妖怪の一種ね。その肉をいくら切り取って食べても減らない無限生物……つまりは究極の食料。伝説では、地の気を吸って増えていくといわれている……』
『地の気、まるでPSだ』
マクスがつぶやく。
「そうだ。無から有は生まれない。彼女の記憶によると、シミュラはイニシエーションで変異型WBをいくつも植え付けられていた」
「そんな……WBを複数インストールするのは危険なのに」
カマラの声が震える。
「そのうえで、彼女はPS濃度の濃いアルドスに軟禁された。魔法によって、PSを自らの細胞へと変えられるように」
『地球の科学を超えているわね。いったいどんな原理なの』
ミーナは驚きを隠せない。
「知りたいな。シミュラの身体は知識の宝庫だ」
『魔法で自分の肉を無限に増やす……』
カマラが茫然とした声で言う。
思いもよらないPSの利用法に畏怖を感じているのだろう。
『悪魔の所業、まさしく魔女だね』
『やめなさい。マクス』
アキオが声を出す前に、ユスラの硬い声が響いた。
『100年前のエストラの困窮は伝え聞いています。そうしなければならなかったのでしょう。そして、為政者である王女がその身を捧げた。誰も彼女を責められません』
「シミュラには適性もあったようだ」
『100年の孤独――』
ミーナが凍えるような声でつぶやいた。
『人でなくなった身で過ごす長い年月がどれほど恐ろしいか』
『アキオ』
ピアノが、すがるような声を出す。
彼女も、人から離れた容姿で何年も過ごしてきたのだ。
「わかっている。だが、その前にすることがある」
『アキオ、例の赤いカプセルをプールに入れておいて』
『そうだね。それがいい』
カマラとマクスの言葉にしたがって、アキオは赤いプローブ・カプセルをプールに投げ入れた。
「シミュラ。聞こえているか」
アキオがエストラ語で話しかける。
彼女の思考の中にいる間に、学習した成果だ。
〈アキオ、まだいたのか。早く去れ〉
再びプールから首長竜のような顔が伸び、返事をする。
声はかすれているが、エストラ語なので言葉は流暢だった。
アキオは近づき、片膝をついてシミュラの顔と向き合う。
「最後の用事を終えたら帰る」
〈そうか〉
「お前に言うことがある」
〈なんだ〉
「お前の体が欲しい。一緒に来い」
『アキオ、そんないい方って』
『直截過ぎます』
『まず、はじめに心が欲しい、じゃないのか』
『でも、野蛮なのも魅力的です』
『いや、絶対、違う意味で言ってるよね』
ミーナが翻訳して教えたのか、インナーフォンに少女たちの声がこだまする。
〈すでに返事は申した。ダメだ〉
魔女は、とりつく島もなく断る。
『でも、もう、あなたがそこにいる必要はありませんよ』
突然、少女の声が地下室に響いた。
ミストラだった。
ミーナに頼んでスピーカーフォンに切り替えたに違いない。
使っているのはエストラ語だ。
外交官の家系だけに語学が堪能なのだろう。
〈だれだ〉
「ミストラだ。わかるか。地球の道具を使って遠くからお前に話しかけている」
〈おお、あの娘か。風呂場で泣いていた〉
『そうです、その娘です。おっしゃるとおり、わたしはたくさん泣きました。泣いて、そしてアキオに救われた。あなたもそうなるべきです』
シミュラの混ぜ返しに応じず、少女は決然と言い放つ。
『わたしは、サンクトレイカの外交の一翼を担って、何度かエストラに行ったことがあります。その時にヤルなる家畜を見ました』
〈ヤル?知らぬな〉
『当時は、わたしにも真偽のほどはわかりませんでした。しかし、それは餌が無くても際限なく大きくなる家畜だと教えられました』
〈――そうか〉
『おわかりでしょう。もう、あなたが、ご自身の身体を使って生み出された技術は家畜にまで応用されているのです。外交的に聞こえてくる噂でも、この20年、少なくとも15年は、エストラに飢饉は起こっていません、つまり――』
ミストラは間を置き、
『あなたの役目は終わったのです』
〈そうかもしれぬ。だが、わたしはここに居らねばならん〉
『まったく、王族はどうしてこんなに頑固なのでしょう――ユスラ、お願い』
ミストラはため息交じりに言う。
『シャトラ・エストラさま』
代わってユスラが呼び掛ける。
〈その名で呼ぶな〉
『あなたは、アキオとエストラの王都を回られたと聞きました』
〈そうだ〉
『楽しかったですか』
〈まあまあ、だな〉
『――』
〈嘘だ、楽しかった。ここ数十年ないほどにな。なぜかはわからぬが……〉
『わたしも、アキオとシュテラ・ミルドの街を回ったことがあります』
〈知っておる。見たぞ、何だあの服は……臍が出ておったではないか〉
『あなたさまも相当な服装だと伺いましたが――』
〈あの男、案外口が軽いな〉
『では、わたしがどのようにアキオと街を楽しんだかご存じですね』
〈ああ、知っておる。アキオの記憶で見たからな。気の毒な屋台の男と兵士たち――〉
『そうです。そうです。わたしは楽しかった。生まれて初めて、心の底から楽しかったのです。そしてうれしかった。願いが――死ぬまでに成し遂げたかった願いが、いくつも叶ったのですから』
〈そのようだな〉
『シャトラさま。わたしは、あなたに現実の街を歩いていただきたい。アキオと共に。本物の太陽の暖かさ、屋台の食べ物の匂い、雨の冷たさ、そして――あの人の温もりを、感じて欲しい』
『そうだ、姫さま。あなたは頭の中の作り物じゃなく、本当の地面を歩かなきゃいけない」
突然キイの声が響いて、アキオは驚いた。
どうやら彼女もエストラ語が話せるらしい。
『わたしもアキオと街を歩いたことがあります』
〈女傭兵だな。キイといったか。見たとも。服を買っておったな〉
『そうです。馬車の練習、街の喧嘩、そして――ガブンの塔。見たことはありませんが、エストラの螺旋塔の素晴らしさは伝え聞いています。でも、ぜひ、ガブンの塔にもお上りください』
〈わかっておる。アキオの目から見たあの景色とお前の美しさ……風の匂いも――だが、現実に憧れても無駄なこと。この醜い肉の塊では、どうにもならぬ〉
『アキオが必ず何とかします。それに、アキオは見た目で人を判断しません。彼は、毒に崩れたわたしを抱きしめ、口づけさえしてくれたのです』
〈ルーナリアの姫君か。ピアノといったな〉
『はい。おそらくわたしの姿もご覧になったでしょう』
〈ああ、見た。よくぞ耐えたな〉
『アキオがいなければ死んでいました』
〈――アキオ〉
「なんだ」
〈お前の記憶にあったように、皆、素晴らしい子供たちだ。大切にせよ〉
『姫さま』
少女たちが口々に叫ぶ。
「やはり、来ないか」
アキオが、ぽつりと言う。
〈わたしには、エストラの王族としての義務がある〉
『エストラでも、サンクトレイカでも、たぶん西の国でも、誰もあなたのことは覚えていないよ。そんな冷たいひとたちのために、ずっと独りで我慢するなんて馬鹿げている。ボクなら我慢なんかしない』
〈人に覚えてもらうためにする行為ではないのだ〉
「建前ではない、お前の本心を聞かせろ」
〈同じだ〉
『嘘です』
少女の叫び声が響いた。
カマラだ。
『誰もいないこんな場所で、毎日毎日をただ漫然と過ごし、今日が何日かもわからず、過去もなく未来もない、そんな生活は死んでいるのも同じです』
〈おぬし、カマラといったか。そういえば、おぬしとわたしは似ているな。誰からも忘れ去られ、打ち捨てられた存在という点で……〉
『そう。でもアキオはわたしに世界をくれた。そして、いま、彼はあなたにも世界を与えようとしている。それをつかんで。逃がさないで。彼は与えられるのを、救われるのを、ただ待つ存在を認めない。あなたが、いま本当に欲しいものを、心の中にあるものを彼にいって。シャトラ・エストラ王女ではなく、アキオが名付けたシミュラクラとして――』
〈よせ――やめろ。わたしの気持ちを揺らすな〉
『今を逃せば、二度と機会はない。これが最後。だから叫んで、あなたの王族の心の壁の中にある、本当の気持ちを。シミュラクラの願いを。そうすれば、必ずアキオは連れ出してくれる』
祈るようなカマラの言葉だった。
だが、王女は頑なだった。
〈やはり、わたしは行けない。早く去れ〉
「わかった。仕方がない」
アキオは立ち上がり、踵を返してプールから離れた。
振り返らず、どんどん階段を上がっていく。
最初のうち、それはプールの中の液状物質が、たゆとう中で発した音のように聞こえた。
しかし、やがて、それは徐々に大きくなり、最後に叫び声になった。
〈待って、行かないで、お願い――助けて、アキオ!助けて、連れ出して、独りはいや。わたしは、わたしは、もう、ここには居たくない――アキオ!〉
「その言葉を待っていた」
言うなり彼は階段を飛び降りた。
まっすぐ魔女の元へと落下していく。