607.空から降ってきた彼女 01
わたしの名はマルヘンドラ・ブラッサド・マッヘラン、国の三方を神の霧、背後を世界最高峰のマイニオスト山に囲まれたナーガリ・マッラ王国の王だ。
わたしが、原始的な生活を続ける小国の、謎の多い不気味な王として世界に知られていることは知っている。
敢えて世界に、我が生活を知らしめないようにしていたからだ。
しかし――
わたしの命の火は、もうすぐ消えさるだろう。
だが後悔はない。
こころより愛する者に出会えたのだから。
そう考えて、わたしは腕に抱えた黒い円筒に、最後の頬ずりをするのだった。
21の年に、わたしは王位についた。
父の死を留学先のサイベリアで知り、急遽、母国に帰ったのだ。
飛行機で隣国であるムガルへ降り立ち、そこから馬を使って山道を辿り、ナーガリに入る。
山道を進むにつれて、わたしの心は重くなってきた。
わが国ながら、その生活の素朴さに泣きたくなってしまったのだ。
電気は無く、水は井戸から手で組み、当然のようにネット環境を含む通信手段はない。
いや、一応はあるのだが、後に述べる理由で、電子的な連絡は取れないのだ。
だから、父の死は、山を下ってムガルに出た通信兵によって、やっとのことで知らされたのだった。
隣国ムガルの寒村部でさえ、我が国よりは科学的だろう。
しかし我が国は変わらない。
わたしが王座についても変えることはできないだろう。
70年前、水戦争に巻き込まれた我が国へ、トルメア王国の戦術核が落とされ、マイオニスト山、当時はエベレストと呼ばれていた世界最高峰の山の登山基地としてにぎわった我が国は、首都を含む大部分が蒸発してしまった。
パタンに住む生き神クマリとともに――
さらなる攻撃で、国自体が壊滅してしまうと思われた時に奇跡が起こった。
マイオニスト山を除く三方を突然の霧が取り囲んで、その内部および上空では機械が動かなくなったのだ。
神の霧の発生だった。
この、他国ではT地帯と呼ばれる謎の現象のおかげで、我が国はトルメアの侵略を免れることができたのだ。
さしたる特産物も持たず、地政学的な要衝でもなかったことが幸いしたのか、トルメアは我が国への興味を失ったように、さらなる侵略はなされなかった。
要するに、あの悪魔の覇権国は、気が向いたから我が国に核を落としたのだ。
以来、我が国は首都を王都の西100キロにある湖水地方へ移し、国名をナーガリ・マッラ王国と変えて他国との接触を極力断ってきた。
主食である米は我が国自慢の美しい棚田で作ることができたし、畜産も盛んなため食糧問題は起こらなかった。
さらに、30数年前の、灰色の霧爆発以降、人々の身体は病に強くなり、多少の怪我や病気で死ぬことが無くなったのも大きかった。
王命で国民の出入りは自由にできなくなったが、さしたる不平はなかった。
特に通信管制を敷いているわけではないが、神の霧によって、通信のほとんどが阻害されるために、他国の情報が大量に入ってくることもなかった。
そういうわけで、わがナーガリ・マッラ王国は、平和ではあるが他国々より数百年遅れた生活を送っているのだ。
70年前の惨禍の記憶を持つ者は少なくなったが、改正憲法の第一条に記載された、他国との接触を極力避ける、という一文は容易に変えられそうにはない。
せめて国民一人ひとりに携帯端末を渡し、国外の情報に接することが多くなれば人々の知識も増えて、変革の兆しも見えて来ると思うが、王国の保守勢力は、そのようなことは一切許さないだろう。
いま、こんなことを考えているわたしですら、サイベリアへ留学するまでは、国を閉じることこそが国の内面を豊かにし、物欲に毒されない素晴らしい生き方だと思い込んでいたのだから。
この国で、わたし以外にそのような考えを持つ者はいない。
ただひとり、次代を担う継承権第1位の者だけが、3年間に限ってサイベリアに留学できるのだから。
王位についたわたしを、まず悩ませたのは慢性的な人口減少だった。
ナーガリ・マッラ王国の人口は減り続けている。
年率で6パーセント近く減っているのだ。
移民などの思い切った政策を取らない限り、このままでは、遠からず国自体が消滅してしまうだろう。
もちろん、国の主だったものたちにとって、移民などもってのほかの愚策だった。
それに、実際、もし彼らを説得できたとしても、これほど原始的な生活を続ける我が国に他国から人がやってくるとは思えない。
つまり、若くしてわたしに手渡された、世界一の高山の座たる風光明媚な王国は、すでに逃れられない『死に至る病』を患っていたのだ。
だが、歴史は――運命はわたしに、さらなる難題を突きつけてきた。
覇権主義を唱え、武力で世界を支配しようとする悪魔の国、トルメア王国が、我が国を再度侵略しようと襲いかかってきたのだ。
理由は簡単だ。
かつて、どこかの天才科学者が発明した、マイクロ・ブラックホールを作るために必要な物質が、マイニオスト山に埋蔵されていることが判明したからだ。
わたしは、幾度となく王国に使者を出した。
もし、その物質が必要なら、わが国で発掘してお渡しする、と。
だが、トルメアは断固としてそれを認めなかった。
我が国の諜報員の懸命の調査で分かったところでは、どうやらマイクロ・ブラックホールというのは、爆縮弾という究極兵器を作るための材料であるらしい。
トルメア王は、そういった星ごと破壊できるような兵器の材料を他国に握られることに恐怖を感じているのだ。
他国を武力で蹂躙してきた国らしい考えだった。
返す返すも、40年前の極北サイベリア基地による、トルメア壊滅作戦が失敗に終わったことが悔やまれる。
何度か書簡の遣り取りをした後、トルメアから一方的な最後通牒が伝えられ、我が国は戦闘状態に入ることになった。
幸いだったのは、世界最高峰のマイニオスト山と神の霧に囲まれて、トルメアが大軍を我が国に送り込めなかったことだ。
それでも、軍事力が無いに等しい我が国は、敵の攻撃のために大きな被害を受け続け、やがて湖畔首都パコマ近くまでトルメア軍に迫られた時――
空から彼女が降ってきたのだった。