605.帝国
「しかし、すごいねぇ」
明るい月明かりに照らされ、恋月草が揺れる庭を見ながら、優しく頬を撫でていく風を感じて、彼女はもう一度、驚きの言葉を口にした。
東屋にアキオの姿は見えない。
何かの用事で、先ほどから席を外しているのだ。
「どうじゃ、オプティカ。ヌースクアムは面白い国じゃろう」
彼女の隣りに腰かけたシミュラが、大きな釣り目の片方を器用に瞑って笑いかける。
「おぬしが一緒に住めば、もっと面白くなると思うんじゃがな」
「いや、あたしには……月猫亭があるからね」
「無理強いしちゃダメだよ、シミュラさま」
向かいに座ったシジマが可愛く睨む。
「でも、ここに住まれたとしても、お店を経営することは可能ですね。代理の方もおられるのですから」
ミストラが笑顔を見せる。
「確かにそれはアリね。それに、そうすれば月猫亭本店以外にも、首都シルバラッドに2号店がオープンできるし……大陸初のチェーン店構想が実現できる」
ラピィが、他の少女には分からない言葉で興奮し、立ち上がってオプティカに近づき手を取る。
「サンクトレイカ中の寡婦、いいえ、大陸中の女性を救うためには、月猫亭200店舗計画が必要だと思うの」
「い、いや、そんな大規模には……」
大柄なラピィが、これも背の高いオプティカの手を取ってはしゃぐ姿には、ある種の迫力がある。
「一つの店だけでも手が回らないのに、何店舗も回すのは無理だよ」
オプティカは首を振るが、
「その点は大丈夫かな。国でさえ、力で支配して、遠くから統治するシステムがあるんだから。それに比べれば店舗経営は難しくないはずだよ。うん」
シジマは自分の言った言葉に自分でうなずいて続ける。
「要は、すぐに状況をやり取りできる連絡方法があればいいんだ。ガルなんかじゃなくてさ。そして、もうボクたちはそれを手にしている」
「あまり地球の科学を急いで広げない、という約束は忘れてませんね」
ユスラはたしなめるが、
「でも、ティカさまがジーナ城に来られるという考えは魅力的ですね。チェーン店、ですか?それをせずに、月猫亭だけに通信技術を使うなら、科学力拡散の問題はなさそうですし」
「い、いや、そういうことではなくてね――」
少女たちの圧力にオプティカはたじたじとなる。
「そういえば、アルメデは向こうでは複数の国を統べる王であったの。やっぱり難しかったか」
困り顔のオプティカへ、シミュラが助け船を出して話題を変えた。
「ああ、するとアルメデさまは皇帝だったのですね」
ヴァイユも、彼女を助けるために話題を変える手伝いをする。
彼女自身、数学を学ぶ過程で地球の歴史に触れ、ラピィほどではないが地球文化に関して造詣が深かったのだ。
「いえ」
アルメデは穏やかに笑い、
「トルメアが帝国であったことはありません」
言ってから、ほんの少し眉をひそめる。
「皇帝?それって王さまと違うのかい。それに帝国って……」
ユイノが首をひねる。
アラント大陸にはない言葉だ。
それを見たヴァイユが説明を始める。
「植民地を持つ巨大国家だとか、それらを搾取して国を維持する体制だとか、いくつか定義があって正確に説明するとややこしいけれど、わたしたちの世界に合わせて解釈すると、複数の国を統べるのが皇帝で、そういった国を帝国っていうのよ。王さまは一国のみを治める統治者のことね」
「そうであれば、ヌースクアムは帝国でアキオさまは皇帝ということになりますね」
ミリオンが顔をほころばせる。
「本人は嫌がるじゃろうが、まあ、事実上はそうじゃな」
「アキオのことは横に置くとして――」
地球研究が趣味のラピィが説明を始める。
「アラント大陸では実現していないけど、地球では、一つの国が力をもって、他の国々を武力で侵略して統一したことがあったの。その際には、それぞれの国家を完全に解体して吸収するのではなく、国として温存したまま傘下においた。その方が統治がしやすかったから。でもそのやり方だと、叛乱や離反が起こる可能性も高かったのね。だからアルメデは、トルメアを、個別の国を統治する帝国ではなく、ひとつの王国として地球をまとめたのよね」
「そうね。確かに、あなたのいうとおりだけど――わたしの時代の地球では、世界は統合化へ向かっていたのよ。わたしが生まれる200年ほど前、アキオの生まれる少し前までは、それぞれの地域は、歴史的な経緯で生まれた国で統治されていた。サンクトレイカなどと同じように。でも、その後、交通手段が発達して物流が整備され、通信が発達すると、各国はそのままで、それらを経済で結んだ経済同盟や大規模経済圏が作られるようになったの」
「そうだったね。あれ、でも改めて聞くと、それってかなり無理があるんじゃないかな。それぞれの国の、資源も教育レベルも経済力も違うのに、経済を中心にひとつにまとめたら――」
「力のある国が、ない国を搾取することになる。シジマは言わなかったけど、国ごとの軍備にも違いはあるから」
ラピィが説明する。
「実際は、そうすぐに問題が表面化することはなかった。人の移動の自由などの利点も多かったから」
アルメデは言葉を切り、
「その綻びが決定的になったのは、地球規模で水を争うようになった水戦争時代が始まってからね。そのあおりを受けて、アキオの生まれ故郷である島国は、海の底に沈んでしまった」
「水をめぐっての戦いを無くすため、ルメデは地球をひとつの世界にしようとしたのね」
ラピィの口調が厳かになる。
「わたしが王になったころには、通信手段が発達し、AIの性能もかなり上がっていたから、それを利用したの。かつては世界各地のコントロールを一つの国ですることなど考えられなかったけど、速い通信手段と、全てを同時に考慮できる高性能AIがあれば、世界は一国で統治することができる。もちろん、その頃のAIは疑似人格すら怪しい原始的なもので、ミーナはおろか、アカラやラートリにすら及ばないものだったけど――」
「それであなたは、さらに世界をひとつにするために、世界の言葉を取り入れた統一言語を作ったのね」
「よく反対されませんでしたね」
ミストラが感心する。
「アラント大陸で、同様のことをやろうとしても難しいと思います」
「反対は根強かったですよ。何度も命を狙われましたし、学者たちからは文化の破壊者と呼ばれましたからね」
「はっ」
ラピィがアルメデに近づき、椅子に座る彼女の背後から、バンと音が鳴るような調子で両肩に手を置いた。
「そういう馬鹿者どもは、少し時間がたつと、アルメデが作ったトルメア語、地球語こそ自分たちの言葉だ、なんて言い出すのよ」
そう言った後で、ラピィが、何かを思いついたように顔を上げた。
「今の話で寓話をひとつ思い出したわ。聞いてくれる」