006.魔法(ウイッチクラフト)
ジーナへ向かう行程は順調で、一時間ほどで、10キロ近く進むことができた。
この調子だと、夕方までに到着できるだろう。
だが、アキオは見知らぬ他世界を侮っていた。
この世界はアキオが考える以上に厳しかったのだ。
行きの行程でも通った樹林帯を抜け、開けた場所に出た時、突然アキオたちは襲撃をうけた。
黒い塊が木の枝からアキオにとびかかり、かろうじてかわしたものの、肩の一部を爪で切り裂かれたのだ。
コフにつけたロープも切断される。
雪面に着地した生き物を見ると、大型のグレイ・ハウンドのような姿をしていた。
体毛は短く色は黒い。
ハウンドと違うのは鼻の先に、サイのような角をはやしている点だ。
カマラがすでに数歩下がってナイフを抜き、迎撃態勢をとっているのを目の端で捉え、アキオも次の攻撃に備える。
「カマラ、もう少し離れるんだ」
そう言って、アキオはアーム・バンドにタッチし、体内のナノ・マシンに疑似コンバット形態Bを指示する。
本来の戦闘特化ナノ・マシンではないため、あくまで「疑似」的な仕様だ。返すがえすもコンバット・ナノ・マシンを持って来なかったことが悔やまれる。
コンマ数秒で腕部、脚部、頚椎まで骨と健、筋肉が強化された。
もちろん、無から有は生み出せないので、他の戦闘には重要でない部分から材料を持ってきている。
急激な変化は体に負担をかけるが、それは仕方ない。
同時に神経伝達系のナトリウム電位反転も強化して高速化が行われる。
ドン、という音とともにアキオは敵生物にジャンプした。
相手も咄嗟に身をかわそうとするが、アキオの速度を見誤り、わずかに遅い。
アキオの拳が犬の鼻先をとらえ、大きくのけぞらせる。
そのまま、左手にもったナノ・ナイフを心臓付近に突き立てようとした時、もうひとつ別の黒い影がアキオを襲った。
敵はもう一匹いたのだ。
犬に似た生物だけに、群れで行動するようだ。
アキオは素早く反転すると、怪物から距離をとった。
アキオの前方5メートルの位置に、二頭の黒犬がうなり、背後10メートル付近にカマラがいる。
それ以外に生物はいないようだ。
つまり、この2匹を倒せばよいということだ。
最初から、ナイフで心臓をねらうべきだった。即席で組み上げた疑似コンバット・モードの性能を調べようとしたのが失敗だった。
アキオは、2匹の犬の真ん中めがけて飛び出した。
避けようとする右側の黒犬の前足をナノ・ナイフで切り落とす。
素晴らしい速度だ。
神経の情報伝達は、神経上に配置された電位型ナトリウム・プラスイオンのチャネルが活性・不活性化をくりかえすことで行われるが、不活性の時間をある程度以上短くできないため、その神経伝達速度には限界がある。
そこで、コンバット・モードでは、ナノ・マシンを使って疑似的に神経を導電化、つまり電気が流れるようにして、その両端に信号の発生器官と受容器官を作成し遅延を無くすのだ。
肉体には多大な負担をかけるが、その効果はすさまじい。
アキオは返す刃で左にいる犬の後ろ足を切り取った。
次いで心臓をえぐろうとした時――
二匹の黒犬の体が発光し、アキオの体に電撃が走った。
「――!」
そのまま、アキオは体を痙攣させて崩れ落ちる。
「アキオ!」
カマラの声が遠くで聞こえる。
さいわい、意識は飛んではいない。
倒れつつも、アキオは思考を働かせた。
敵が発生させたのは、かなり高電圧の電気ショックだ。
黒犬は、電気ウナギのように、体内で電気を作り出せるらしい。
時間をかせいで、身体の回復を待ちたいが、ノーマル・タイプのナノ・マシンは電気に弱いため、強い電圧を感知すると一時的に電圧保護形態をとる。ナノ・マシンが絶縁体に包まれて自己点検をするのだ。
今、アキオの体内のナノ・マシン濃度はゼロに等しくなった。
電気を流しやすい神経伝達強化が仇となって、全身に同時に電気ショックがまわってしまったのも。失敗だった。
容易に体は動くようにはならないだろう。
とりあえず、傷は受けても致命傷にはならないようにして、保護形態のリセットを待たねばならない。
その後に反撃するのだ。
ただの傷なら簡単に治せる。
それにしても、陸上生物があのような強い電気を発生させるとは意外だった。
そう思って犬を見上げたアキオの目に信じられないものが映った。
犬の周りに5つほどの青白い球体が浮かんでいる。
バチバチと音を立てるそれは、球電現象に他ならない。空間に放出された高電圧が球形になり光を放つ、怪異現象に近い存在だ。ニコラ・テスラの文献で読んだことはあるがアキオは初めて見た。
どうやら、2匹の犬が協力して作り出したようだ。
アキオの高スピードの反撃を恐れ、離れた距離から攻撃するつもりだろう。
アキオは、這って移動し始めた。
とにかく、球電から離れなければならない。
あのクラスの電圧を食らえば、ナノ・マシンはもちろんだが、脳自体が大ダメージを受ける。器官的な脳のダメージはともかく、脳内の記憶はナノ・テクノロジーでは回復できないため、なんとしても避けなけれればならないのだ。
球電のひとつがアキオに向かって放たれた。
ゆっくりと近づいてくる。
アキオが素早く動けないのを見越して、確実に当てようとしているのだろう。
――逃げろ、逃げなければ。
もがくアキオの前に細い影が立った。
カマラだ。
少女は素早くかがんで、アキオのナノ・ナイフを拾うと、背を低くして迎撃態勢をとる。
「アキオ マモル!」
やめろ、というより早く、カマラは飛び出した。
目標を少女に変えて、スピードを上げつつ飛んでくる一つ目の球電をギリギリで避ける。
目標を失った球電は地面にぶつかって消えた。避雷針に落雷するようなものだ。どれほど高電圧でもアース(大地)にはかなわない。
カマラは一直線に2匹に向かう。
だが、犬の前には未だ4つの球電が白く発光している。
「やめろ、カマラ」
どう考えても勝てるはずがない。自殺行為だ。
「カマラ!」
その時、アキオはこの日、2回目の信じられないものを目にした。
少女の前に、直径30センチほどの炎の塊が複数生まれたのだ。
そのまま、炎は勢いよく球電に飛んで行く。
青と赤の塊がぶつかり、すさまじい爆発が生じた。
まぶしさから視力が回復すると、重なるように倒れた黒犬の前に立つ少女の姿が見えた。
ゆっくりと犬に近づくと、胸に刺さった2本のナイフを引き抜き、雪に何度か突き刺して血をぬぐう。
カマラは、爆発の瞬間に、足を失って動けない怪物の心臓へナイフを投げたのだった。
ようやく体が動くようになったアキオが立ち上がると、少女が近づいて笑顔でナノ・ナイフをアキオに返した。
自分のナイフは太もものシースに収める。
「カマラ、今のは――」
尋ねようとしたが、おそらく理解できる回答は得られないと考えたアキオは頭を振った。
「いや、ありがとう。助かったよ」
アキオの言葉に少女はにっこりと微笑むといった。
「アキオ マモル」