594.伝説
こういった復讐に関する話は、ヌースクアムの少女たちの間で、しばしば話題にのぼるものだった。
いわゆる思考実験のようなものだが、少女たちの厳しい経歴を考えると、受けた労苦、苦痛を相手にやり返すか否かという命題は、真剣に考えるに値するものだ。
さらにその延長線上として、もしアキオに何かあれば……という流れに持っていくと、如何に彼女たちが彼を大切に思っているかを確認する試金石にもなる。
それは、まさに今、カマラとピアノがオプティカに行ったことだった。
もちろん、本気で誰かに復讐しようとする者などヌースクアムには一人もいない。
アキオと出会って、それまでの人生をすべてリセットした彼女たちにとって、過去の憎しみなど、取るに足りない事柄に過ぎないからだ。
同様に少女たちの間では、アキオが巨木あるいは巨岩のようだ、という例えもよくなされていた。
たしかに、うまい表現だとオプティカは思う。
特に樹に例えるのが良い。
陽を浴びて、空に向け高く聳え立つ黒い巨木というイメージは、普段から寡黙なアキオには相応しいものだ。
触れれば温かく、耳を当てれば地下から吸い上げられる水の音に似た血流の流れを聞くことができるのも……
けれど彼女は、シミュラの「アキオの子供が欲しい」という言葉を何度も聞いているし、他の少女たちにも、あからさまに口には出さないが、その望みがあるというのを聞き知っていた。
彼女たちにとって、アキオは文字通りの樹や石ではなく、生きた人間の男なのだ。
例え彼が、その態度の端々に、人の情を解さない木石の兆候を見せているとしても。
この時の駒鳥号の会話は、ピアノとカマラにとっては彼女をよりよく知るための端緒であり、オプティカにとっては少女たちの中でもっとも口数の少ないふたりと親しくなるきっかけに過ぎなかったのだが――
後に彼女は、この時のやり取りを何度も思い返すことになるのだった。
「オプティカさま」
アキオから離れたアルメデが、声をかけながら近づいて来た。
貴族出身らしい、まっすぐに背を伸ばした良い姿勢を保ちながら。
短い髪が、その第一印象を少年のように見せているが、細い首と肩、形よく曲線を描く胸、括れた胴から続く腰の形が、整い過ぎていると言ってもよい顔の造りと相まって、見る者に彼女の周辺だけが光を放っているように感じさせる。
「なんだい」
オプティカは座席から立ち上がってアルメデを迎えた。
「今晩中にシュテラ・ミルドに帰らなければなりませんか」
軽く彼女を見上げながら美少女が尋ねた。
「いや、月猫亭はタントーラが見てくれるから無理に帰る必要はないよ」
「では、どうか今夜は、このままヌースクアムにおいでください」
「え、でも」
アルメデの申し出に躊躇う彼女に、
「そうじゃな。おぬしには、ぜひピアノが丹精した恋月草の小径を歩いてもらいたい」
シミュラが言い、
「わたしの作った野菜も食べてください」
ユスラも声を上げる。
「わたしたちの国を、あなたさまに見ていただきたいのです」
「湖の底に作った遺跡公園へもお連れしたいね」
「ボクは広くなった格納庫を見せたい」
わっという感じで、彼女のまわりに集まって来た少女たちが口々に話しかける。
これまで、別な街で生活するオプティカは、他の少女たちとの接点がほとんどなかった。
血縁者であるユスラと、シミュラ、アルメデという王国の指導的立場にある者以外、親しく会話する機会がなかったのだ。
しかし、彼女を知る3人は、折りに触れオプティカの人となりを話していたので、少女たちは彼女のことを良く知っていた。
今回、ほぼ全員で、アキオとオプティカを巻き込んだ事件の収拾に出かけたのは、それがいつもの彼女たちのやり方であるのは別としても、皆がオプティカと親しくなりたいと考えたからだ。
しかし、実際に、彼女と再会した少女たちは、珍しく話しかけることを躊躇してしまった。
領主館でのお茶会でも、それほど親しく話しかけられなかった。
なぜなら、オプティカ=ユーフラシア・サンクトレイカ女王は、在位は少女時代のわずか数年であったとはいえ、その偉業が王国では伝説となっている存在だったからだ。
さらに年を召したとはいえ、その顔にまだ充分美貌を残し、長身の背をまっすぐ伸ばして立つ姿には近寄りがたい雰囲気がある。
言葉遣いは砕けて率直だが……
彼女を前にした少女たちの気持ちは、地球でアキオを目の前にした軍人、アルメデの前に立つ貴族と似たものなのかもしれない。
もっとも、このふたりに関して言えば、喧伝された伝説が事実を凌駕するものではないのだが。
往々にして、伝説を前にすると人は委縮するものだ。
恐れているわけではない、ただ、そのきっかけを逸してしまうのだ。
きっかけが無いなら、作ってしまえばいい。
今回、アルメデの提案がきっかけとなって、その垣根が取り払われ、少女たちとオプティカの距離はひと息に縮まったのだった。