587.号泣
「あ、あなたは」
メルカトラが思わずつぶやいた。
元総務官の名を聞いてシジマとの会話をやめ、オプティカたちのやりとりを見ていたのだ。
娘は少女に気づくと、跪きはしなかったが、深く会釈した。
「あの時は、名も名乗らず失礼をいたしました」
「やはり、ソルダの血縁の者だったのですね。女の方だとは思いませんでしたが」
娘が微笑んだ。
「この仕事に着いた頃に、女であることは辞めました」
「では、よい機会ですね。わたしが」
少女が強い口調で言う。
「ソルダに命じて、元の貴族に戻しましょう。ラメリ家の次代当主として、あなたから奪った女性としての幸せを取り戻してあげたい」
「お言葉、感謝いたいします。けれど――」
娘は頬に冷たい微笑みを浮かべ、手をかざした。
「この手、この指は血に塗れております。どのような殿方も、こんな汚れた手で触れられたいとはおもわないでしょう」
ほんの少し口調が投げやりになる。
「いまさら、普通の人間には戻れません」
「それは違います」
少女たちの間から声が響いた。
声を発したのは、先ほどメンドラを見失ったと報告していた、灰色髪、紅眼の美少女だ。
「手の汚れは洗えば落ちます」
「そんな単純な意味ではありません」
娘が声を尖らせた。
「単純ですよ。複雑にしているのは、あなた自身です。事情を知れば、気にしない男性はいるものです」
淡い青色の髪の少女が並び出て言う。
「姉さま」
紅い眼の少女はうなずいて、
「そのとおりです。それは、我が――夫が、自分を殺そうとした暗殺者のわたしに向かっていった言葉なのです」
少女の言葉に娘は黙る。
「でも、おかしいですね。ソルダは暗殺することで政治を動かす手法は取らなかったはずです。あなたが手に掛けたのは、どういう相手ですか」
「犯罪者です。すべて、単純な法では裁けない者たちでした」
「ああ、なるほど」
メルカトラは、うなずくと、
「そのことについては、ソルダを混じえて後に話し合いましょう。今は――」
少女はアキオを見て、
「この方のいわれるように、兄妹でソルダの許へお行きなさい。お互いに積もる話もあるでしょうから」
娘、リヴィアイラはわずかに躊躇いを見せたが、すぐに兄に向かってうなずくと、
「失礼いたします」
軽く頭を下げて、門へ向けて歩き出した。
大男がそれを追う。
歩きながら言葉を交わす兄妹の姿が見えなくなると、メルカトラはアキオを見て、ため息交じりに尋ねる。
「どうして、あの衛士がザンガの妹だとわかったのですか」
「情報はいくつもあった」
「いくつもあったかい?」
オプティカが驚く。
「まず視線だ。ザンガが身の上話をしている時の彼女の視線は、他の衛士たちとまるで違う動きをしていた」
「他は」
「体つきだ。詰め物でうまく擬装してはいるが、首と肩と腰の線の柔らかさが明らかに女性だった」
「あら、アキオは彼女の身体をそんなふうに見ていたのですね」
金色の髪、金色の瞳の少女が、可愛らしい声――しかし、どことなく凄みのある声をだす。
が、それにまったく動じず、というより気づかずにアキオが続ける。
「なにより彼女は衛士ではない」
「なぜわかるのですか」
思わず少女が尋ねた。
「剣技場で見学していた衛士は、彼女以外、全員、俺が骨を折った者たちだ」
「戦った者全員を覚えているのですか」
「ま、主さまだからね」
長い金色の髪を揺らしながら、青い瞳の美少女が笑った。
「でも、アキオ、取り逃がしたのは、もとニューメアの科学者なのでしょう」
彼を主と呼んだ少女と、おそらくは双子であろう髪の短い少女が話しかける。
確か、アルメデと呼ばれていたはずだと考えて、メルカトラは、はっと思い至った。
いま彼女が口にしたニューメア王国、その前王女の名がアルメデだったことに。
体調が思わしくなく、前カスバス王の娘に王位を譲ったと言われている歳をとらない美貌の女王、まさか、この方が……
「そうだ」
「ドミニス一族なのですね。ならば、人格はともかく、科学的知識と才能は侮れないわ。今、アラント大陸の人々には、グレイ・グーが入っているけど、それを解析されて悪用されることはないかしら」
「大丈夫だろう」
「なぜ言い切れるの」
「ナノ・マシンの、物理ロックと操作ロックを掛けたのはヴァイユだ」
「ああ、そうだったわね」
アルメデが納得顔になる。
「ご安心を、アルメデさま」
さっきアキオに可愛く声を掛けていた金髪金瞳の少女が口を開いた。
さっきは怖い声を出していたが、こうして見ると、美しく優し気でありながら、どことなく自信のなさが垣間見える少女だ。
たぶん、ご自分の美しさに気づかれてないのね、そうメルカトラは思う。
「そのドミニスの女性が、ロックを外すことはないでしょう」
そう言い切る彼女の顔は強く美しく、先ほどまでと違い、自信にあふれていた。
「あなたが断言するなら安心だわ」
アルメデが笑顔を見せる。
「メルカトラさま」
その会話を見ていた彼女に背後から声がかかった。
アルメデとそっくりな少女だ。
さっきの挨拶を交わした時の名は、たしかキィだったはずだ。
「キィさま」
「さまをつけられるとくすぐったいね。わたしは元々、ただの傭兵だからね」
「傭兵――でも、今はアキオさまの奥方さまのおひとりなのでしょう」
さっと白い頬が赤みを帯びる。
「そう呼ばれているが、わたし自身は、主さまの、ただ一人の傭兵のつもりだ」
「アルメデさまとは御姉妹なのですか」
「いや」
少女は僅かに首を振る。
「ある事情から、あなたもご存知のナノクラフトで、あの方の姿をお借りしているだけだ。それより」
キィが口調を変えて続ける。
「お声をかけさせていただいたのは、他でもない」
そういって、彼女は小柄な少女の肩に手を置いた。
「メルカトラさま、あなたは長きにわたる責め苦によく耐えられた」
きゅっと抱きしめる。
「あ」
「わが主ほど拷問される専門家ではないが、わたしも傭兵時代に責め苦を受けたことがある。まあ、当時のわたしは、こんな姿ではなかったので、貞操の危険は無かったのだが――それでも辛かった。それなのに、あなたはそのお歳で、手酷い責めに耐え抜かれ、あまつさえ自力で逃げ出された」
突然、絶世の美少女に抱きしめられて、メルカトラの頭に最初に思い浮かんだのは、この方は、どうしてこんなリズモの花のような甘酸っぱい良い香りがするのだろう、ということだった。
しかし――
「本当に、よく耐えられた。わたしは、あなたを尊敬する」
「あ、う」
温かいからだに優しく抱きしめられ、命がけで獄を抜けだしてから、初めて本当に苦労を認められ、心からの労いの言葉を受けて――
涙が溢れ出した。
そうだ。
彼女は辛かったのだ。
心細かったのだ。
目を潰され手首を落とされ、身体中に傷をつけられ、絶望していたのだ。
それでも負けまいと、一矢報いようと気を張って、気持ちに蓋をして、ここまでやって来たのだ。
だけど、この美しい人が、封じ込めた感情の蓋を開けてしまった。
人に涙など見せたくない。
泣きたくない。
貴族としてあるまじき行為だ。
だが、流れ始めた涙はもう止められなかった。
もう、いい……
メルカトラは、自分を抱きしめる少女の温もりと香りに背を押され、涙を流す心地よさに身を任せることにする。
そうして、子供のように、歳相応に、彼女は声を上げて泣き続けたのだった。
やっぱり、アキオの奥方だねぇ――
そんな二人の様子に、オプティカはしみじみと思った。
涙を流す少女が、昼間の自分に重なったのだ。
アキオに褒められ、積年の胸のつかえが降りた自分自身に。
きっとこの子も――
彼女は、メルカトラを宥めるように優しく背中を叩くキィを見つめ、思った。
アキオから苦労を認められたんだろうね。