586.家族
背後に気配を感じて振り返ったオプティカの前に、2つの影が並んで立っていた。
大小ふたつの影だ。
「ザンガ、バーク」
オプティカが声を上げる。
彼女を庇って重傷を負ったザンガは、今までナノクラフトを使った治療を受けていたのだ。
アキオは、オプティカに、彼の傷はすぐに癒え、身体も元通りになると告げた。
確かに、彼女自身も大変な怪我を負いながら、見る間に回復した経験を持っていたため、傷についてはそれほど心配はしていなかった。
その後、巨人との最終戦が始まり、、バーク少年が彼の様子を見守って、動けるようになり次第、連れて行くと言ってくれたので、その後を任せていたのだ。
「身体は」
「大丈夫です」
「どうしたんだい。えらく大人しくなったじゃないか
オプティカは、話しぶりが丁寧になった大男をからかう。
「あ、姉さん、からかわないでください」
大きな体を縮めるザンガに向けて、彼女は、優雅に膝を折った。
豊かな白い髪に包まれた頭を下げる。
「ありがとうザンガ、あんたは命の恩人だ。あんたがいなけりゃ、今、あたしはここにはいなかった」
完璧な貴族の会釈と砕けた口調が不釣り合いであったが、全体としては気取りのまったく感じられない、心からの謝意が伝わる気持ちの良い挨拶だった。
「お、あ、俺、は」
しどろもどろになる男にオプティカが続ける。
「でも、自分の命を犠牲にして助けたのは気に入らないね。もうやるんじゃないよ。自分の命を大切にするんだ」
ザンガは、その言葉を、俯いて噛み締めるように聞いていたが、
「前にもいった。姉さんが先に俺を助けてくれたんだ……でも」
「でも、なんだい」
「なぜ、今の挨拶を――まるで貴族に対してするような丁寧な会釈だ」
「気に入らなかったのならごめんよ。でも、あんたは貴族だろう。ザングリフ・フィン・キムバルク」
「お、俺の名を覚えて……」
「当りまえだろう」
オプティカが笑う。
この世界の貴族にとって、家名を含めた名前は重要だ。
一度聞いた名を忘れないのは基本中の基本だ。
幼いころより、人の名前は、その他の記憶領域とは別な場所に置くように訓練される。
だからこそ、貴族であったグレーシアが、アルメデさまが、シミュラさまが、アキオに新しく名付けてもらったことには重い意味がある。
まあ、わたしの場合は王族をやめてから何十年も経っているから、貴族もなにも関係はないがねぇ――オプティカの口許が自嘲するように上がる。
高位貴族の女が新たに名付けてもらうということは、肩にのしかかる家を捨て身分を捨て、その身一つで、あなたの許へ赴き、すべてを差し出します、ということだからだ。
「す、すまない、姉さん。俺は嘘をついた。俺は貴族じゃない」
「だけど元総務官の血筋なんだろう」
「確かに、ソルダ元総務官と俺たちの血は繋がっている。俺の祖父はソルダの兄だ」
「総務官に子供がいないって聞いていたのは正しかったんだねぇ」
「そうだ。若いころ、おれの爺さんは貴族の家を嫌って屋敷を出て行き、弟のソルダが跡を継いだ。俺たちの爺さんは、シュテラ・ミルドの街娘と一緒になって、俺たちの父親が生まれた。親父は商人になった。結婚して俺たちが生まれると同時に母が死に、俺たちが十二歳の時、隊商がゴランに襲われて全滅した」
「商人としての生活も危険だねぇ」
「両親を亡くして途方に暮れていた俺たちに手を差し伸べたのがソルダだった。爺さんを通じて俺たちを引き取ったんだ」
「あんたの爺さんは頼りにならなかったのかい」
「その少し前に倒れて、病気で死にかけてたんだ」
「引き取られたと言っても、俺たちはソルダの屋敷へいったんじゃなかった。どこかの施設に送られたんだ。そこで様々な知識と技術を叩きこまれた。夜の街を人目につかず歩く方法、暗号の解読から人殺しまで。今ならわかる。子供のいないソルダは、手となり足となる自分の分身を欲しがったんだな。3年後、最終試験を前に俺は施設を逃げ出した」
「待ちなさい」
ザンガとオプティカが声の主を見る。
メルカトラだ。
「聞き耳を立てていたわけではありませんが、聞こえてきたので、質問をします」
ザンガが、オプティカを見、彼女がうなずいた。
「なんでしょう」
「さっきから、あなたは俺たちといっていますね。それはつまり――」
「俺たちきょうだいのことだ」
メルカトラの脳裏に、ソルダの資料を持って、剣技大会の控室にやって来た細身の男の姿が蘇る。
ザンガとはまるで違う小柄な男だった。
「そうだったのですね」
「叩き込まれた裏の技術に嫌気がさして、一人で逃げ出した俺は、その日暮らしの生活を始めた。気楽な毎日さ、望まないまま手に付けさせられた技をちょっと使うだけで、毎日暮らすだけの金は稼ぐことができる。ただ――」
「ただ?」
オプティカが繰り返す。
「ただ、今でも思うことがある。表の世界で、貴族として真っ当にご領主さまに仕えたなら、もっと違う生活があったのだろうか、と」
「総務官を恨んでるのかい」
「まさか、命の恩人だ。感謝しこそすれ恨むことはなどない」
「だったら」
オプティカがザンガに近づき、指で男の胸を突く。
「工場へ行って総務官に会ってくるがいいさ。意識があるかどうかはわからないけど」
「そろそろ、意識を取り戻す頃ですね」
アームバンドを見ながら銀色の髪の少女が言う。
「会って来なって。あたしはどこにもいかないから」
その言葉に押されて、ザンガが踵を返した。
屋敷の門へ向かって歩き始める。
「待て」
声が響いた。
アキオだ。
大男が振り返る。
「行くなら兄弟で行った方がいいだろう――いや、兄妹か」
そういって技場の周りに集まっている衛兵の一人を見つめた。
衛兵は、しばらく黙っていたが、ふ、と笑うと頭にかぶった保護帽をとった。
中に押し込まれていた栗色の髪が弾けるように肩の上に広がる。
「お、おまえ、リヴィアイラ。そんなところで何をしている」
「お久しぶりね、グリフ兄さん」
若く美しい娘がにっこり微笑んだ。