580.衝撃
「あ」
メルカトラが小さく声を上げた。
小柄な少女を突き飛ばすように、辺境伯が扉に向かったのだ。
「お父さま」
もちろん先ほどまでの闘いによるナノ強化の名残で、体幹が極限まで強められているメルカトラの身体はビクともしない。
体格の遥かに大きいラメリ伯の方が、よろめきながら部屋を走り出て行く。
「サゼンナ」
痩せた長身が扉の向こうに消えると、少女が呼びかけた。
「は、はい」
使用人長は、紺を基調とする、すっきりとした意匠のお仕着せのスカートを舞わせて床に膝をついた。
深く頭を下げる。
彼女はモルワイダの直弟子だった。
14の歳に、自ら進んで生まれたばかりのメルカトラ世話役を買って出たのだ。
それなのに偽物を見破れなかった。
その悔恨に身を引き裂かれる思いだ。
たとえ、どれほど見た目がそっくりであったとしても、自分だけは気づくべきだったのだ。
肩を震わせる彼女に少女は続ける。
「偽物に気づかなかったことを気に病む必要はありません。あなたは、わたし以上に、母の失踪に衝撃を受けていたのですから。わが父に及ばないかもしれませんが――」
そう言って、彼女はあけ放たれたままの扉に目をやり、
「この屋敷のことはあなたに任せます。あなたも聞いたように、母が見つかったようなので、わたしは工場へ向かいます」
「仰せのままに」
少女は優しく彼女の肩に触れると、アキオたちを見た。
窓の外から、ザルドのいななきと蹄の音が聞こえて来た。
伯爵が工場へ向かうのだろう。
「あの父親だとあんたも大変だねぇ」
オプティカが笑顔を見せ、
「だけど、あれほど惚れられているのはうらやましいね。わが旦那さまは表向きは淡泊だから」
少女も笑顔を見せ、
「母も同じぐらい父のことが好きなのです」
「だったら何とかしないとね――安心するんだ。生きてさえいれば、あたしの旦那さまが必ず元通りにしてくれる。分かっているだろう」
「はい……あ」
話しながらオプティカは長身を運んで少女の前に立ち、彼女を抱き上げた。
「失礼するよ」
彼女は、壊れ物を扱うようにそっと少女をアキオに渡した。
「旦那さま。少しでも早くメルカトラと共に工場へ――あたしは後から行くから」
「了解だ」
彼はうなずくと、肩からライフルを外してオプティカに差し出す。
少女を見た。
「首につかまれ」
オプティカと違い、今現在、彼の容姿は老人ではなく本来の姿に戻っている。
彼の奥深い黒い瞳に至近距離で見つめられた少女は、僅かに頬を染めながらも、黙って、彼の首に手を回した。
「頼んだよ」
オプティカが、部屋の大きな窓に近づき、手を伸ばして開ける。
アキオは、片手で少女を保持すると、軽いステップで助走し、2階の窓から外へ飛び出した。
開いた手で噴射杖を取り出して一振りすると、ステップに足を駆けてジェットを噴射させる。
空を飛ぶのも、大人の男性とこれほど強く密着するのも、少女にとっては初めての経験だった。
きつく目を閉じる。
一瞬、声を上げそうになった彼女は、しっかりと抱きしめるアキオの大きな手を感じて、落ち着きを取り戻した。
がっしりとした彼の首に回した手に力をこめる。
アキオの体温は温かく、耳を押しつけた胸からは、ゆっくりと力強い心臓の音が聞こえた。
気持ちに余裕のできた彼女は目を開けた。
目まぐるしく飛び去る足下の景色、頬に当たる風を心地よく感じ始める。
「大丈夫か」
「はい」
と答えるつもりだったのに、実際に彼女の口から出たのは、
「もちろんです。誰にものをいっているのですか。わたしは剣花姫ですよ」
という憎まれ口だった。
「そうだったな」
アキオの口許が僅かに緩むのを見て、少女から、さらなる憎まれ口が生み出されようとした時、
「到着だ。舌を噛むな」
そう言って、アキオは、空中で一回転しながら杖を折りたたみ、ほとんど衝撃を感じさせないまま、地上に降り立った。
さっきまで戦っていた工場の敷地内だ。
「メルカトラさま」
サータイア運搬を指揮していた衛士が、声を掛けてきた。
「母が見つかったと聞きました。どこですか」
なんとなく降りたくなかった少女は、アキオの首にしがみついたまま尋ねる。
「地下10階だそうです」
返事を待たず、アキオは少女を抱いたまま、地面を蹴って、飛ぶような速さで工場内に入った。
明るい廊下を走り抜ける。
非常階段の扉を開けると、中は例によって吹き抜けのある構造だった。
明かりの光量は少なく、ところどころに暗がりがある。
アキオは、躊躇なく手すりを飛び越え、メルカトラを抱いたまま、吹き抜けを落下した。
どれほど地下深くまであるのかはわからないが、少なくとも底は見えない。
地下8階を過ぎたところで、彼は噴射杖を一時噴射させた。
膝を使って、階段の踊り場に衝撃なく着地する。
メルカトラを地面に降ろそうと――手を離すが、少女は彼の首から手を離さない。
もの問いたげに彼女を見るアキオに、少女は、空咳をひとつして、彼の体から滑り降りた。
「つ、連れてきてくれて礼をいいます」
そう言って踵を返すと、彼に背を向けて扉を開ける。
扉の向こうは、間接照明に照らされた落ち着いた廊下だった。
遠くから、人の声が聞こえて来る。
「向こうですね」
少女は叫ぶと駆け出した。
アキオが跡を追う。
「お、お嬢さま、どうしてこんなに早く――お、お待ちください」
幅広い、赤色のスライド・ドアが開いたままの部屋の前で、衛兵は彼女を見つけると、慌てて押しとどめようとした。
「何なのです」
小柄な少女は、男を見上げて腰に手を当てる。
「母上が見つかったと聞きました。そこをおどきなさい」
「い、いえ、それが……」
「酷いのか」
背後から尋ねるアキオの声に男の顔に緊張が走る。
展望台で痛めつけたひとりかもしれない。
「は、はあ」
男はメルカトラを見る。
「良いです、いいなさい」
「奥さまと宰相さまの身体は、バラバラにされて、透明な入れ物の中に浮かんでいます」
「生きているんだな」
「働いていた男たちはそういっています」
「脳は」
「は?」
「もういいわ」
彼の質問の意味を理解できるずに聞き返す衛兵を押しのけて、少女が中に押し入った。
強化された少女の筋力で、大きな男が背後に押し飛ばされ尻餅をつく。
「母さま!」
走りこんだメルカトラの足が途中で止まり、絶句する。
彼女の前には、白い光で明るく照らされた水槽があり、その中に彼女の母、モルワイダが浮かんでいた。
バラバラになって。