058.抱擁
「マクス、俺だ。キイに頼まれてきた」
アキオの言葉に、背後で彼女が身震いするのを感じる。
彼は腕を伸ばして震えるマクスの小さい手を握ってやった。
「野郎」
男たちが、遠巻きにふたりを取り囲む。
「変わらんな」
アキオの顔に、優し気な微笑みが浮かんだ。
世界は違えど、収容所や監獄の中身が変わらないことが嬉しかったのだ。
「おまえたちに恨みはない。だから怪我をさせたくない」
アキオは穏やかな声音でいう。
不衛生な監獄で怪我をするということは、すなわち感染症で死ぬということだ。
それは彼らにもわかっているはずだ。
「ここにいろ」
マクスを房の隅に立たせると、アキオは男たちに近づいた。
「俺は、1晩、長くても2晩あいつと一緒にここにいるだけだ。すぐに出ていく。その間、俺たちに関わるな」
男たちはギラギラした目でアキオを睨みつけた。
「といっても、納得はしないだろうな――見ろ」
そういって、アキオは、軽く檻の反対側のレンガの壁を殴りつけた。
ドゴォンと音がして拳の周りの壁が吹っ飛び、レンガの下の岩肌がむき出しになる。
男たちが、悲鳴を上げて飛び下がった。
「これがお前たちの頭だとしたら、どうなるか分かるな――もう一度いう、俺たちに関わるな」
だが、囚人たちはアキオを見つめたままだ。
その時、彼は自分を見つめる強い視線を感じた。
男たちの背後、マクスの待つ壁と反対側付近から、その視線は浴びせられている。
そこは、メナム石の配置の加減で影になっていた。
「誰かいるのか」
アキオが問うと、鉄を鑢掛けするようなささくれた声が答える。
「いるぜ、ここにな」
影はゆっくりと立ち上がった。
大きな男だった。
「また大男か――」
アキオはうんざりする。
どこの世界でも、身体の大きさを暴力の優位性だと考える馬鹿がいる。
まあ、ほとんどの場合、それで通用するから仕方はないのだろうが――問題は、そいつらが例外を認めようとしないことだ。
だから、面倒なことになる。
「おい、お前ら、なに後ろに下がってる。前に出ろ、そいつを痛めつけろ」
「だ、だってキリルさん、こいつの馬鹿力を見たでしょう」
「別に殺らなくてもいいぜ。そのかわりお前たちが死ぬことになる」
「そ、そんなぁ」
アキオは囚人たちが可哀そうになった。
同時に、房内の安全確保が容易になったことを知って笑みがこぼれる。
要は、こいつを効果的に締め上げればすべてうまくいくのだ。
「な、なにを笑っているんですか。僕たちは今、危険な状態なんですよ」
マクスの声が響き、アキオは眉を上げる。
始めて聞いたが、マクスの一人称は『僕』らしい。
「心配するな。すぐ終わる」
彼は囚人たちを見回して尋ねる。
「こいつにお前たちの仲間が殺されることはあるのか」
男たちは答えなかった。
だが、その表情が事実を如実に物語っている。
「では、こいつは始末する。いいな」
そういって、アキオは囚人の間をスタスタ歩き、牢の主らしき大男に近づいた。
大きな男だった。アキオより耳から上は背が高い。
「すまんな。こういう成り行きだ」
静かに言うアキオに、いきなり男が殴りかかった。
きれいなフォームのストレートを繰り出す。
侮れない速さだった。
人間としては。
もちろんアキオは難なくそれをかわす。
そして考える。
即死はまずい。看守がやってくる。
かといって一晩中呻かれても迷惑だ。
この房のボスに明らかな力の差を見せて勝ち、囚人どもに恐怖を植え付け――アキオは目の端でマクスを捉える――同時に少女に恐怖を与えない、そんなやり方で始末しなければならない。
そんなアキオの逡巡を感じとったのか、続いて男が蹴りを放ってきた。
腰の入ったなかなかのキックだった。
思わずアキオは脛で受けてしまう。
「ぎゃぁ」
(しまった)
相手はゴランではなく人間だ。
彼が普通に受けたら、相手の骨は粉砕される。
足を押え片足で跳ねとぶ男を眺めて、アキオはうんざりした。
面倒になった彼は骨折の痛みに喚き始めた男の口元にフックを放った。
男の前歯が口から吐き出され、顎が外れる。
これで大きな声は出せないだろう。
あとは、2日は目を覚まさないように、テンプルに軽く拳を当てて意識を刈り取った。
地響きをたてて男が倒れる。
大きな塊が部屋の真ん中にいるのは邪魔なので、房の隅に蹴り飛ばして片づけた。
吹っ飛んだ男は壁にぶつかり部屋の隅で小さくなる。
明日になれば、看守が見つけてくれる。歯と足はこれまでのツケだ。あの体ならチャチな感染症で死にはしないだろう。
そう思いながらアキオは言う。
「これで、あいつは2度とお前たちに迷惑はかけない」
男たちは恐怖で顔を引きつらせている。
「お前たちは俺に迷惑をかけるか?」
彼の問いに、囚人たちは首が壊れるほど激しく頭を左右に振った。
アキオは背後に来ていたマクスの手を引いて部屋の端まで歩き、壁にもたれて座った。
隣に彼女を座らせる。
思いついて肩を抱いてやった。
マクスはガタガタと体を振るわせている。
「怖がらせたか」
「い、いや。剣さえあれば、僕だってあれぐらいはやれる」
「そうだな」
しばらくそうしていたが、彼女の震えが止まらないので、アキオはマクスを抱き上げて自分の前に座らせた。彼女のことはキイから頼まれている。できる限りのことはしてやりたい。
「おい」
囚人に声をかける。
「毛布をくれ。1枚でいい」
「は、はい」
一番近くで震えていた男が毛布を持ってやってくる。
その時、気付いたが、何人かの囚人が気絶した牢の主の首を絞めていた。
哀れだが仕方がない。
人を痛めつけるということは、自分もやり返される可能性があるということだ。
アキオの所属した部隊でも、傲慢な態度をとる上官は誤射で殺されるか、負傷した時に始末されるのが常だった。
アキオは、礼を言って毛布をうけとった。
ついでに、男に、食事について尋ねる。
1日1食、昼だけ粗末な食事が与えられるらしい。
もう今日の分は終わったとのことだ。
マクスごと上から毛布をかけて体に巻き付け、彼女を抱きしめる。
なんとかアキオから身体を離そうとあがいていたマクスは、押えられてコロンとアキオの胸に倒れこんだ。
「な、なにをする、離せ」
「嫌か」
「嫌も何も、僕たちは男同士だろ」
「だが、震えている」
アキオは毛布の上から、マクスの体をさらに強めに抱きしめた。
「キイが、マキイがいっていた。寒い夜は男同士でも女同士でもくっついて眠る、と」
「それはそうだけど……」
「暖かくなったら離れればいい」
「わ、わかったよ。暖かくなるまでだぞ」
マクスはそう言うと、目を閉じてアキオの胸に顔をうずめる。
震えがだんだん収まっていく。
ゆっくりと時間が過ぎ、夜になった。
マクスは身じろぎもせず、アキオの胸で眠り続ける。
囚人たちも彼を恐れておとなしくしている。
静かな夜になりそうだった。
マクスの穏やかな吐息を胸に感じながら、アキオも目を閉じる。
だが、静寂は長く続かなかった。
深夜、アキオの体内時計で02:05に牢内に大音量の鐘が鳴り響いたのだ。
「なんだあれは?」
囚人に問うと、火事が起きた時の鐘だという。
「火災の時、牢はどうなる?」
アキオが男に尋ねると、看守が規則を守る者なら一時開放がなされるし、そうでないなら囚人は焼け死ぬ、と答えた。
窃盗房は開放されるが、殺人房は火事が起きても放っておかれるらしい。
アキオが収監されていた収容所も同様だった。もちろんそうだろう。戦犯は、相手国にとって、ほぼ間違いなく殺人犯でもある。
レンガと土でできている監獄であっても、火災が起きれば有毒ガスで人は死ぬだろう。
アキオは毛布の中のマクスを見る。
あどけない顔でアキオの体にしっかりとしがみついた少女はまだ目を覚ましていない。
いよいよとなれば、壁を壊して脱出するしかないが、ミーナの言うように、これからのマクスの生活を考えると、なるべく穏便な方法をとった方がいいだろう。
「マクス」
アキオは少女の肩をつかんでゆすった。
「ん、ああ、ん?」
大きく伸びをするマクスに言う。
「火災が発生したようだ。一時開放があれば外にでる」
「わかったよ」
一瞬、ぼうっとしていた少女は、すぐに頭を振るとアキオから離れて立ち上がった。
廊下から流れ込む空気が焦げ臭くなってきている。
そこへ看守が走りこんできた。
「火事のため、これからお前たちを一時解き放つ。明日の朝8時に監獄前広場に戻ってこい。そうすれば罪は減じられる。逃げれば死罪だ」
繰り返しそういうと看守は牢の鍵を開けた。
囚人たちは、われ先に外へ走り出る。
アキオも、毛布を持ったままマクスを抱いて牢の外へ出た。
階段を駆け上がり、開けっ放しの扉を抜けて門へ向かう。
「いったん、お前の屋敷に行くか」
「うん、それがいいだろ――」
とっさにアキオはマクスを抱いて横に飛んだ。
するどい金属音が元いた場所の壁に響く。
「狙いは俺か?」
一瞬そう考えたが、この世界で狙われる理由が思い当たらない。
囚人たちが牢の主の仇を取ることもないだろう。
起き上がりながら後ろを見やり、銀の針が通路で光っているのを目にする。
相手はピアノと同じ系統の暗殺部隊のようだ。
それで彼は自分が結社の長、ピアノの義父を倒したことを思い出した。あれの報復なのだろうか。
この分だと、火災自体を引き起こしたのも彼らなのだろう。
監獄から脱出させてのちに、誘拐なり殺害をする予定なのだ。
マクスの手を引き、そのまま前に走って通路から顔を出した覆面の暗殺者たちを殴りつけ無力化する。
都合、三人の暗殺者を眠らせてアキオたちは監獄から走り出た。
少し行くと再び襲われる。
そいつらを倒すと、アキオはマクスを横抱きにして走り出した。
少女の指示で彼女の屋敷方向に向かった。
暗殺者の数が増える。
彼女の家を中心に敵は配置されているらしい。
アキオは方針を変えることにした。
マクスを抱いたまま、ジグザグに狭い通路の壁の間を飛び建物の上に出る。
屋根を伝いながら、彼女の邸宅と反対方向へ走り出した。
敵の目から逃れるのだ。
強化魔法を使わない限り、彼の速度についてこられる者はいないだろうし、街中で魔法は使えない。
充分に追手の目をくらましたと確信すると、アキオはシュテラ・ナマドの外壁に取り付き、飛び越えた。
そのまま森に駆け込む。
街の中より広い森林に隠れた方が安全だと考えたのだ。
今夜は三つの月のうち二つが新月で真ん中の月だけに光があった。
雲が多く風が強いため、月光は時々刻々その光を変化させ、それにつれて森は暗く明るく姿を変える。
しばらく森を走って、大きな木にウロができているのを見つけたアキオは、その中に身を隠した。
牢と同じようにマクスを胸に抱いて座り、毛布を巻きつける。
「街中暗殺者だらけだ。朝までここで待とう」
アキオはマクスに告げる。
武器と連絡装置等、すべてを宿に置いたままなのが悔やまれる。
鋼武苑はエクハート邸の近くにあったので、荷物を取りに寄ることはできなかったのだ。
ふと気づくと、マクスの紫に近い青い瞳が下から見上げていた。
「不安か」
アキオの息で緑の巻き毛が揺れる。
「いいや、何も心配していないよ。だって、あなたが、シュッツェ・ラミリス――」
「アキオでいい」
「アキオが守ってくれるから。キイがアキオに助けてもらった……守ってもらったといっていたのが今わかった。あなたがいれば僕たちは大丈夫」
そういって、マクスはアキオの胸に頬を当てた。
「ごめん、アキオ。気持ち悪いよね。アキオは男が好きじゃないんでしょう」
「そうだな」
しかし、だからといって女が好きというわけでもない、と言おうとしてやめ、そのかわりに、
「だが、おまえは女だろう」
と言う。
はっとマクスが顔を上げてアキオを見た。
「べつに珍しいことじゃない。たまたま体が男だっただけで、お前は女だ」
マクスはこぼれるくらい大きく綺麗な目を見開き、さっと彼の首に手を回すと身体を引き上げて唇を合わせた。
「ごめんよ。嫌だよね」
すこし唇を離してそういい、また軽く口づける。
「でも、でも僕のこと女だと思ってくれるなら――」
「いいさ」
実のところ、彼にとって、美醜同様、肉体が男か女かはあまり重要ではない。
どちらへでも自由に変えられるからだ。
重要なのは肉体に宿る精神だ。
「ありがとう。僕にはわからないんだ。自分が男なのか女なのか」
「お前は女だ」
アキオは断言し、
「だからといって、よく知らない男にこれはどうかと思うが――」
「いいじゃないか」
マクスは、小鳥がついばむような軽い口づけをする。
「アキオはキイさんともやってるんだから」
「――」
どう返事してよいか、彼は迷う。
宿屋でマクスが見たのは、アキオの知らぬ間にキイが一緒に寝ていた姿だ。
ただ、寝ていただけだ。
だから否定したい、が――その前日に、実際にアキオは無理やり彼女に唇を奪われているのだ、残念ながら否定はできない。
「あの時、僕はキイさんが羨ましかった。僕も、僕だって……」
「だから、これか」
「違う。これは……お礼だ。ありがとう、監獄で僕を救ってくれて。アキオがいなかったら今頃僕は……」
アキオは慎重に言葉を選ぶ。
「気にするな。おまえのように美しかったら、あいつらは絶対放っておかないさ」
「美しい……」
マクスは頬を染め、自嘲するように続ける。
「体は男だけどね」
「それは関係ない。おまえが自分を女だと思うなら女だ。おれもおまえは女だと思う」
「そ、そうなの」
マクスはアキオをきつく抱きしめる。
「ありがとう。僕は、女、女でいいんだね」
「そうだ」
アキオはマクスの頭を撫でてやる。
「女になりたいか」
「え」
「心だけじゃなく体も女になりたいか」
「わからない。僕にはエクハート家の嫡男としての……」
マクスはしばらく黙り、
「なりたい、なりたい。なりたい……」
祈るように繰り返す。
「――もしなれるなら」
「では、女になれ」
そういって、彼は暗殺者から奪った銀針を取り出し――
「!」
アキオはマクスを抱えてウロを飛び出した。
柔らかく彼女を押しやって地面に転がす。
同時に、彼の体に電撃が走った。
電球だ。
魔法による不意打ちを喰らったのだった。
敵影はひとり、アキオはしびれる体で手にした銀針を投げつける。
喉に針が突きささった暗殺者が倒れた。
「マクス」
少女の手をつかんで横抱きにし、アキオは走り始めた。
次々と、背後から火球と雷球が飛んでくる。
ナノ・コートなしに直撃された雷球によるダメージは深刻だった。
半分麻痺した体に鞭打ってアキオは樹の枝に飛び乗る。
そのまま枝から枝を伝って逃亡を図った。
しばらく進むと樹林が途切れて崖になっていた。
断崖の下には川が流れている。
アキオは樹から降りるとマクスを背後に暗殺者と向き合った。
12人いる。
「たった一人の子供に大げさなことだ」
どちらを狙ったかを知るために、アキオはカマをかけてみる。
男たちは沈黙したままだ。じりじりと近づいてくる。
「アキオ」
マクスがアキオの背に頬を当てて名を呼んだ。
「…………」
続けて少女はつぶやくように言葉を紡ぎ、
「あなたは、生きて!」
そういって、アキオを崖から突き落とした。
普段のアキオなら、小さな少女に押されただけでバランスを崩すなどありえない。
だが、今、彼は電撃の後遺症のために正常な行動がとれなかった。
少女に手を伸ばしたまま、アキオは川に落ちてゆく。
最後に彼の目に映ったのは、冴えた月光に照らされたマクスの透明な笑顔だった。