577.陥穽
悲鳴を押し殺し、震える膝を叱りつけて、メンドラは強化ガラスを割って部屋に押し入って来た黒い影を睨んだ。
頭脳明晰で長身、精神的にも肉体的にも他者を見下し続けてきた彼女が、初めて自分の能力の及ばない怪物を目の当たりにした瞬間だった。
相手は凄まじい戦闘力を持つ男だ。
その手にする武器は、威力と発射音から考えて、かつて地球で使われたとされる電磁気力を使うレイル・ライフルに違いない。
噂に聞いた、ドッホエーベ戦のためにニューメアで緊急開発され、混成軍に配備されたものと同じだろうか。
残念ながら、彼女自身はそれよりずっと以前にニューメアを離れてしまったため、詳細は分からない。
さらに、この男は、たった一発で彼女の最高傑作のひとつであるサータイアを行動不能にする銃弾をも使用していた。
そして何より、その身体能力が恐ろしかった。
いかに無慈悲な改造を施されたのか、男は棒状のロケット・ジェットひとつで自在に空中を飛び回り、たった一本の剣で彼女の巨人を細切れに引き裂くことができるのだ。
彼女はそれを、ドローンに塔載したカメラで子細に観察していた。
男はまるで、黒いガヌトーのように大きくしなやかな動きでサータイアを、クンパカルナを屠っていった。
ガヌトーは、大陸北西部に棲む猫科の巨大獣だ。
遠目に見ると、男はまるで狂暴な肉食獣だった。
暴力と筋肉の疼きに、少しの間もじっとしていられない獣。
もしも近くで見たなら、おそらく大陸に棲息する獣同様、血と汗と肉の匂いのする獣じみた化物に違いないと思っていた。
だが、実際に彼女の前に立った男は、想像とはまったく違う雰囲気を漂わせている。
黒い服、黒い髪、銀の仮面の奥で底光りする黒い瞳――
黙って彼女を見つめ返す男は、ある種、形容できな圧とともに物静かな印象すら与えていた。
「メンドラ・ドミニスか」
名を聞かれ、反射的に彼女は問いかえした。
あなたが魔王ね、と。
男は、銀色の仮面を取り去りながら答える。
俺はアキオだ。
不思議にも、彼が名を名乗ったことで、メンドラは少し気持ちが落ち着いた。
いくら強いといっても、相手は名前のある生物、女の腹から生まれたヒトに過ぎない存在だ。
黒の魔王という二つ名も、科学の無いこの世界にやって来て、最先端の地球の技術を見せることで得たものに違いない。
それならば――わたしも魔女と言われた女だ。
科学の力をもって黒の魔王を撃退して見せよう。
策謀を好むメンドラは、行動を起こす際に十重二十重に準備をするのが常だった。
当然、クンパカルナを操作するこの展望室にも、様々な罠が仕掛けてある。
「いいえ、あなたは黒の魔王さま。本当にお強い方、そして、まもなく――」
彼女は微笑むと、アキオからは死角になる机の下のボタンを足で踏みながら言った。
「強かったお方になる」
彼女の不幸は、彼が地球において少年の頃から悪魔と呼ばれていた事実を知らなかったことだ。
そこに科学技術の差はない、ただ戦闘能力と非情さによってのみ、彼は悪魔と恐れられていたのだ。
彼女の前方、アキオとの間に超硬質ガラスが跳ね上がると同時に壁と天井の間に隙間が出来て、銃口がせり出し自動照準で高出力レーザーが発射された。
さらに天井全体に設置された108基の火炎噴射管のうち、侵入者の直上から舌なめずりするような炎を噴出する――はずだったが、実際には何もおこらなかった。
壁に隙間が開くと同時に、魔法のようにアキオの手に現れた武器が音を立てると、すべてのレーザーと火炎噴射管が爆発したように破壊されたからだ。
だが、メンドラはあきらめなかった。
机の下に手を伸ばし、天板裏のスイッチを入れる。
勝った!
心の中で叫んで白い歯を閃かせた。
シュッ、という装置の擦過音を響かせて、アキオの床が消滅する。
彼女は複数設置されている落とし穴を作動させたのだ。
展望室から地上までは、およそ30メートルある。
魔王は、空を飛ぶ仕掛けを持っているから、殺すことはできないだろうけど、しばらく時間は稼げるはず、その間に脱出ポッドを使って――
途中で彼女の思考が止まった。
何事もないように、アキオが彼女の前に立っていたからだ。
彼が手を軽く振ると、手首から伸びて天井に突き刺さったワイヤーが小さな音を立てて収納された。
あれを打ち出して、落下を防いだのだろう。
アキオは手にしたP336をホルスターに落としこむと、軽く腕を引き、強化ガラスに拳を突き出した。
特に腰の入ったパンチではなかった。
だが、ガーディアンの攻撃を受けても割れないはずのガラスが粉々に砕け散る。
「もう終わりか」
安全のため、丸い破片となって飛び散ったガラスを頭からかぶった彼女にアキオが尋ねた。
「お前が、その装置を使って巨人を動かしていたのか」
彼は、メンドラの前の机の上に置かれた箱型薄鞄を見て問う。
目と目が合い、視線が交錯する。
彼女がアキオの目を覗き込み、アキオもまた彼女の瞳を――覗き込んではいなかった。
彼は彼女を見ていなかった。
彼女の中に、どんなものも見出だしてはいなかった。
彼の眼――
その目の色の意味を彼女は知っている。
ある意味、彼女には馴染みの色だ。
それは、科学者がすでに死んだ実験動物を見る目だった。
アキオが低いが良く通る声で言う。
「お前は、オプティカを殺そうとした」
別に腹を立てた様子ではなかった。
だが、彼女の死は既に決定している。
それだけはわかった。
相手は黒の魔王。
彼女が集めた情報が確かなら、駆け引きも策謀も、もちろん色仕掛けも一切通用しない相手だ。
なんとか、なんとかしないと、わたしの命はあと数秒しかもたない!
科学知識と詭弁と詐術で世の中を渡ってきた彼女の頭が目まぐるしく回転する。