575.報恩
アキオ・シュッツェ・ラミリス・モラミスは、その生の第一義において兵士であり、紆余曲折を経て科学の徒となった。
科学者、工学者としての彼は奇跡を信じない。
だが兵士として、彼は数度にわたり奇跡を目の当たりにしたことがある。
「ザンガ!」
死を恐れずアキオへ剣を投げたオプティカが叫ぶ。
まさに、大蛇に頭を砕かれようとした瞬間に、彼女を突き飛ばして、代わりに大男が左半身を噛み切られたのだ。
血が吹き出る。
そうだ。
いつだって奇跡は人が死力を尽くした先にある。
だが、時に――
「姉さん、よかった」
「あんた、なんてことを!」
微笑みながら倒れる男にショックを受け、動きを止めるオプティカの頭部をもう一体の蛇が襲う。
それを見て、アキオは噴射杖をフル・ブーストさせた。
数メートルに及ぶ火炎の尾を引いて、凄まじい加速でオプティカの許へ向かう。
途中、すれ違いざま空中で彼女の投げた剣の握りを掴んで鞘から引き抜いた。
切っ先を蛇に向ける。
だが、間に合わない。
彼の速度、距離、敵の位置。
冷徹な計算結果を彼の頭脳がはじき出す。
剣が届く前に、彼女は頭を噛み砕かれるだろう。
銃は撃てない。
射線上に彼女がいるからだ。
駄目だ。
諦めるな。
足掻け。
アキオが手を伸ばす。
だが、その数メートル手前で大蛇が口を開け、オプティカの、桜色の、髪を――
ガキン、と金属音が響いた。
彼の目の前で、何か黒い大きなものと共にオプティカが倒れ、彼女の頭部のあったところで巨大な蛇が空疎に歯を噛み合わせていた。
何事か、彼のあずかり知らぬところで奇跡が起こったのだ。
アキオは、凄まじい勢いで迫る地面を目にし、杖を持つ手を返して力任せに180度回転すると足から地面へ着地した。
その衝撃で、オプティカが倒れこんだ地面を含めて、コンクリート製の床が、円状に陥没する。
床を蹴って跳ね上がった。
彼の手を離れた杖は、土煙を上げて土中深く突き刺さる。
目の端に、オプティカから黒い何かが離れ、空へ飛び立つのが見えたが、アキオはそれを確認することなく、手にしたロング・ナイフの隠しボタンをあるパターンで押した。
一瞬で剣が発熱し、刃先が暗紫色に光り始める。
ドッホエーベ以後にシジマが開発したナノ・エッジ、通称至極が起動したのだ。
それは、単分子幅に近い爪状合金が、高温の助けを受けたナノ・マシンによって揺らぎながら刃の上で高速回転する仕掛けだ。
その刃先にかかれば、およそ、この世で切れないものはない。
あまりに危険なので、彼にしか起動できない仕様になっている。
アキオは、ブーツの踵を蹴って靴底のナノ吸着モードを起動させた。
かつてミニョン――幼かったアルメデを救うため、塔を登った時に使った技術、つまり足の動きに応じて靴底の吸着と反発を自動制御するものだ。
それらのことをほぼ同時に行った彼は、強烈に噛み過ぎて口を開けることが出来なくなった大蛇の頭を足で踏みつけながら細長い体を駆け上がった。
走りながら肉眼では視認できない速さで剣を振る。
彼が走り過ぎた後の蛇の肉体が、霞のように消え失せ、紙吹雪のような細胞片が空に散っていく。
瞬く間に、巨人の指から伸びた5匹の大蛇は、形すら残さず消え去った。
指先が変化した蛇は、金属鎧をまとっていないので抵抗すら感じない。
だが、彼の攻撃はまだ止まなかった。
身体を刻まれて、雄叫びを上げながら豪炎を吹くクンパカルナの腕を駆け上がりながら、10センチ刻みの輪切りにして地面に落としていく。
レイル・ライフルの弾丸に耐えた鎧も、至極色に光る刃の前では濡れ紙同然だ。
腕の付け根まで削り終わるとそのまま肩に乗り、水平に走って真横に刃を閃かした。
巨人の頭が口から真横に切られ、大量の可燃性液体と共に頭部が地面に落ちていく。
返す刀で、アキオは首を刎ね落とした。
それは、まったく情け容赦のない力の行使、一方的な蹂躙だった。
だが、彼の攻撃はまだ止まらない。
彼を振り落とそうと暴れる巨人の動きをものともせず、反対の肩から残った腕を刈り取った。
「や、やめなさい、なんてことを」
女の拡声された声が悲鳴のように響くが完全に無視する。
こいつを放置すると、再びオプティカに害が及ぶだろう。
メルカトラには悪いが、彼はすでに巨人を細胞の一片たりとも地面に触れないように完全消滅させるつもりでいる。
アキオは勢いをつけて落下する腕に飛び乗ると、地面に着くよりも早くその上を駆け抜けて腕を消滅させた。
さらに、両方の足首を斬って地面に転がすと、オプティカの許へ駆け寄る。
「大丈夫か」
「ああ、あたしはね」
彼女は、硬い表情で地面に倒れた大男の傍らに膝をつき、無事な方の手を握っている。
「離れるんだ」
アキオはオプティカを立たせると、ポーチからカプセルを取り出してザンガに投げた。
コクーンが展開し、傷ついた男は灰色の膜に包まれる。
すでに展望台でナノ・マシンを与えていたため、ほとんど出血はしておらず、傷口も治り始めているようだ。
コクーン内では治癒速度が上がるため、まもなく復活するだろう。
アキオがオプティカにそう告げると、
「安心したよ」
彼女は仮面の下で笑顔を見せた。
「どうやって牙から逃れた」
「あれさ」
美少女が、空を過る影を指さす。
「スエイナ鳥があたしにぶつかって助けてくれたんだ。アローナに命じられてやったんだろう。放鳥をしたお礼かね」
「だが――」
鳥にそこまでの知能はないし、彼が放した鳥であるとは限らない、という言葉を飲み込んでアキオが言う。
「つまり奇跡、か」
偶然を信じない彼の不服そうな言葉に、
「なんだ、知らないのかい」
オプティカが口元をほころばせた。
「奇跡っていうのはね、あんがい起こるもんなんだよ」