564.反発
オプティカの言葉にアキオが彼女を見た。
おそらくシミュラは、旦那さまに、わたしと会っていることを話さなかったのだろう。
そう考えた彼女が、豊かな白髪を揺らして笑顔で小粋に肩をすくめて見せると、彼は何も言わなかった。
「もし――」
メルカトラが縋るような目で叫ぶ。
「もし、それが本当なら、お助けください!ああ、でも、ダメ。もう間に合わない。怪物、怪物が……」
「落ち着くんだ」
オプティカがさっと立ち上がり、長身を運んで少女の前に立つと膝をついて目線を合わせた。
「事は急を要するようだね。だったら尚のこと、落ち着くんだ。いいかい、あんたは利口な子だ。さっきいったように、これまでの経緯を話しておくれ。できる限り簡潔に筋道を立てて。できるね」
「は、はい」
少女は何度もうなずいて、街に魔女が現れてからの出来事を語った。
「なるほど、怪物ね」
メルカトラが話し終わると、椅子に座って聞いていたオプティカがアキオを見た。
「高位魔法だね」
「そうだ」
落ち着いたふたりの会話を見た少女が、我慢できなくなって叫ぶ。
「お願いです。少しでも早く、お国へ軍を要請してください。連絡鳥を使って」
「ガルなら用意できるよ」
バークが彼女の言葉に続ける。
「その必要はない」
アキオが言った。
「諦めろというのですか」
少女が激昂する。
「そんなことはいってないよ。落ち着いて旦那さまの言葉を聞いとくれ」
最初からアキオのことが気に入らないらしい彼女の様子を見て、オプティカが窘めた。
「ヌースクアムに軍はない。人口も十人あまりだ」
「な……」
アキオの説明にメルカトラが絶句する。
力が抜けたのか、床に膝をついた。
「だから落ち着くんだよ」
少女に近づいたオプティカが、彼女の髪を撫でる。
「あんたは、こう思ったんだろう。そんなのは国じゃない、三つの大国に勝ったなんて、大ウソもいいところだ、って」
少女は返事をしなかった。
ただアキオを睨んでいる。
「三つの国の連合軍と戦ったのは、わが王と12人の奥方さまだけなんだ。残念ながら、その時、あたしはまだその中に入っていなかったから、聞いた話だけどね。その方たちは、数千人の兵と空を覆う怪物と戦って、最後は悪魔の光まで消し去って勝った。つまり――」
オプティカは立ち上がった。
「旦那さまひとりで、この街の衛士全員と怪物に勝つことができるのさ」
「そんなこと……」
少女が拳を握りしめてつぶやく。
「そんなこと信じられません。たしかに、この人は強かった。でも、それは人間が相手だったから。万全なわたしなら同じことがやれます。でも、でも、あの怪物、ああ、あれはなんて恐ろしい。見ただけで、動物とも魔獣とも違うということがわかる化物です」
少女は身体を大きく震わせた。
「失礼を承知でいいますが、アキオさまは、かなりお年を召されているようですから、現場ではなく指揮で力を発揮される方とお見受けします。あの魔女とその怪物と戦うことは無理でしょう。もちろん身体が治ったいま、わたしも共に戦わせていただきますが……」
ハッとオプティカが額に手を当てて笑い、少女が驚いたように彼女を見る。
「どうだいアキオ、旦那さま。やっぱりあたしはこの子が気に入ったよ」
彼女は少女に向き直った。
「いいだろう、お嬢さま。あんたに3つだけ教えておく」
そう言ってオプティカは形の良い長い人差し指を1本立てて見せた。
「ひとつ、旦那さまとあたしは見かけと違って若いんだ。本当の姿を見せたくないから、年をとって見せているだけなんだよ」
もう1本指を立てる。
「ふたつ、あんたは忘れてるようだけど、あたしのアキオは、あんたの失くした掌と眼を完全に治した。そんな魔法を聞いたことがあるかい。実をいうと、あたしも胸を貫かれて、心臓をアキオから貰って生きてるんだ。この人はそれほどの力を持っている」
ひと呼吸おいて、オプティカが3本目の指を立てた。
「みっつ、そしてこれが一番大事なことだ、よく聞くんだよ」
彼女は、メルカトラの眼を見ながら続ける。
「あんたの敵は魔女なんかじゃない。ただの小悪党の自称魔女の女さ。なぜなら本当の魔女っていうのはね――」
そう言って彼女は顔を上げて遠くを見る目になり、
「折れず曲がらず気が強く、それでいて優しくて冗談が好きで、信じられないくらいに強くって可愛い、長きにわたる孤独な年月にすら負けない最高の女だ」
アキオを見る。
「その上、泣きたくなるほど一途なんだよ」
彼の唇が僅かに動いた。
苦笑しているのだ。
もちろん、彼女が誰のことをいっているかは分かっている。
加えて、手足が伸びる、といえば完璧だ。
「そうだな」
「信じて――よろしいのですか」
少女が力を籠めて尋ねる。
「人生には、闇雲に信じなければならない一瞬があるもんさ。あんたにとっては今がその時だ」
言ってから、オプティカは胸の中でつぶやく。
あたしにとってのあの時がそうであったように――
「安心おし、旦那さまは強いよ。あんたの想像を超えてね。石でマーナガルの首を飛ばし、素手で簡単にゴランを八つ裂きにしてしまうからね。それに、この人には神と精霊というふたつの僕がいる」
「神と精霊……」
少女が不思議そうな顔になる。
聞いたことのない言葉だからだろう。
「本当に信じても――」
「任せろ」
アキオが簡潔に言った。
その時、激しい揺れが建物を襲った。
「わぁ」
バーク少年が床に倒れこみ、その拍子に、頭に着けていた仮面は首まで落ちる。
「な、何が起こった」
ザンガが叫ぶ。
地震の少ないアラント大陸では、大地の揺れに対する人々の根源的な恐怖があるのだ。
「おそらく下町にある工場が原因でしょう。わたしが逃げたことを知ってメルドーメが怪物を動かしたのだと思います」
床の振動に耐えながら、メルカトラが震える声で言った。
窓の外から、今まで聞いたことのない、不気味で獣じみた咆哮が聞こえ始める。
「工場――ここから近いのか」
「ええ、同じ下町ですから」
「向かおう」
アキオが立ち上がった。
「案内します」
気丈に少女もそれに倣う。
髪も瞳も黒くない白の魔王と、得体のしれない怪物の戦いが始まろうとしていた。