559.拝命
「ああ、よく来たね」
父に呼ばれて部屋に入ると、アローナの羽の色に似た暗褐色の髪色の女性がわたしを待っていた。
「奥さまに似た美しいお嬢さまですね」
女性が、黄緑色の瞳でわたしを見つめる。
美しい人だ。
わたしは父を見た。
物解いたげな視線に父が答える。
「ああ、この方はメルドーメ・クライスさまだ。この度、ソルダに代わって、この街の総務官に就かれることになった」
ああ、この人が、とわたしは心中うなずいた。
会うのは初めてだが、その名はかねてより聞き知っていた。
一年余り前から、両親がその名をよく口にするようになっていたからだ。
曰く、メルドーメは天才だ。
曰く、彼女のお蔭で下町の治安が激変し安全になった。
もとは大陸のもっと南の街で暮らしていて、それなりの地位にあったらしいが、どういう気まぐれか、その街の領主からの紹介状を携えて、シュテラ・エミドにやってきたのだという。
懇意にしている領主の紹介状で素性は知れているものの、いきなり街の要職に就かせるわけにもいかないので、とりあえず下町区域の行政担当官を任せたところ、目覚ましい成果を上げたということだった。
そういったことを、父はわたしのダンスの相手をしながら、母は練習用の刃引き剣を交えながら話してくれた。
思えば、色々な意味で変わった両親だった。
領主である母自らがわたしを鍛え、夫君である父自らがダンスの相手をしつつ、わずか8歳の娘に政治について語るのだから。
それこそが、辺境の鬼姫と、身分はあっても気楽な伯爵の三男坊に相応しい態度だったのかも知れない。
「はじめまして、メルドーメ・クライスと申します。メルカトラさま」
女性が優雅に会釈する。
「はじめまして、メルカトラ・ラメリと申します」
わたしは型通りに挨拶を返した。
「お美しい上に、その瞳の奥に隠しきれない知性の光をお持ちのお嬢さまですね」
「そうなんだよ。娘はわたしたちに似ず頭がいい。天才といわれているんだ」
父が、いつものように全開で親馬鹿ぶりを発揮する。
「おまけに強い。辺境の鬼姫の娘だけあって、わたしなどより遥かにね」
『辺境の鬼姫』は、もともと武勇には優れるが女性としての礼儀作法をおざなりにした母を揶揄する言葉なのだが、父は誉め言葉として捉えている。
母はもとから気にしていないようだが――
「この度、長きにわたり伯爵さまをお助けになられたソルダさまに代わって、総務官を拝命しました。よろしくお願いいたします」
総務官とは、事実上、街の行政の長だ。
本来、新しく総務官が任についても、わざわざ10歳の娘に挨拶などしない。
おそらく、わたしがソルダと親しかったからだろう。
戦いのためによく街を留守にする母に代わって、総務官ソルダがわたしの母替わりだった。
男性ではあるが、もともと母の世話係だった彼にとっては慣れた仕事だったのだろう。
要するに、わたしたち母子は2代にわたってソルダの世話になったのだ。
「メルドーメをどう思うか、ですか」
ソルダが本を置いた。
総務官を退いて暇になった彼は、わたしに内政と外交について教えるようになっている。
今日は、わたしは、今まで胸につかえていた疑問を、思い切って彼にぶつけてみたのだ。
「ひと言でいえば優秀な人ですな。シュテラ・サマスからこの街に来て一年余り、いわゆるお試し期間として問題の多い下町区域の行政担当官を任せられ、目覚ましい成果を上げられた」
「わたしが聞いたのは能力じゃないわ」
「言葉遣い、ですよ、お嬢さま」
母譲りの率直な物言いに、ソルダが眉を顰める。
わたしは言いなおした。
「尋ねたのは能力ではありません」
「不審なところはありませんな――今のところは」
「そう思うのね」
ソルダは言った。
今のところは、と。
「なにか、おかしなところがあるのですか」
落ち着いた口調で彼が問う。
「ないわ、まったく。この半年の間、注意して見てきたけど、あの人は完璧。だからかえって心配なの。そんな人が、規模の大きなシュテラ・サマスから好んでこんな辺境に来るのはおかしいでしょう」
ソルダが片頬を上げて笑う。
彼の癖だ。
「なに?」
「お嬢さまは疑り深いですな」
「悪いの?」
「いえ、大切なことです」
「お母さまもお父さまも、あのような鷹揚な性格ですから、わたしが注意しておかないと。上手くいきすぎる時、完璧すぎるものには注意せよ、あなたが教えてくれたことです」
「それは戦時の心得としてお教えしたことですが――もちろん平時でも重要です。しかし、モルワイダさまと同じようにお育てしたつもりでしたが、お母上とはまるで違うように育たれましたな」
「人が悪く、でしょう。ある意味、わたしはあなたの子供だから」
「畏れ多いことです」
わたしは話を戻した。
「彼女が総務官になって半年、その間、わたしは彼女を見てきました。そして気づいたのです。彼女が母さまと父さまを見る目がひどく冷たいことに――冷酷というのではなく、もっと無感情な冷たい目、観察対象を見るような。そう考えて彼女の表情を反対に観察すると、優しく微笑むその下の怪しさに気づきました。メルドーメの瞳の奥は、どんな時でも笑ってはいない」
「具体的に何かをしていますか」
「してないわ。簡単に尻尾は見せないでしょうね」
「言葉遣い、です」
相変わらず口うるさい老人に、わたしは肩をすくめる。
「その態度もいけませんな」
「分かっ――りました」
老人は、ふ、と笑い、
「すでに引退した身ではありますが、まだ、伝手をたどって調べることはできると思います。お嬢さまのご心配を払拭できるお手伝いをいたしましょう」
「ありがとう」
わたしは跳び上がった。
「嬉しくても本当に跳び上がってはいけませんよ」
「はいはい。でも、ありがとう。相談する人もいなくて不安だったの」
「できるだけのことはやりましょう」
それから2か月後、母とソルダが行方不明になった。
シュテラ・サマスへ向かう途中のことだった。