550.血液
「やったね、アキオ、うれしいよ」
オプティカが、しっかりと組んだ彼の腕を巻き込んで、胸に当たるように押さえつけながら言う。
ナノ・マシンで彼女の全身は若返った。
しかし、個人的な理由によって、月猫亭で働く時と自室にいる時で彼女は容姿を使い分けている。
さすがに、毎日、全身を少女と老女に切り替えるのは負担が大きいので、最近では首から上だけを変化させていた。
つまり、いま、アキオの腕に当たっているのは傾国ノ美姫と称された全盛期の彼女の胸だ。
オプティカはアキオを盗み見た。
予想通り、その顔には何の表情も浮かんでおらず、少しだけがっかりする。
そんな彼女の気持ちをよそに、すれ違う人々は、大げさに振り返って彼らを見て通りすぎていく。
周りからすれば、共白髪の老夫婦が年甲斐もなく激しく密着しているのが奇異に見えるのだろう。
だけど、そんなことはどうでもいい。
彼女はそう思う。
アキオとふたりで、明るく美しく陽気な街に繰り出しているのだ。
他人にどう思われたってあたしは気にしない。
だけど――
彼女はもう一度アキオの顔を盗み見た。
本当なら、若く美しい自分をアキオに見せて歩きたい。
それをできなくさせているのは、彼女自身のつまらない意地だ。
でも――オプティカは唇をかむ。
嫌なのだ。
彼以外の者に美しいと思われたくはない。
子供の頃から美姫と称えられ、どこに行っても注目された。
だけど、誉めそやされるのは外見だけだ。
中身を見てくれる者は、まったくいなかった。
世界は、王宮は、ただ中身が空っぽで見栄えのする王女を望んでいたのだ。
そんな自分が嫌いだった。
自分の努力ではなく、親から与えられた顔の皮一枚のことで賞賛されるのが我慢ならなかった。
早く年を取りたかった。
若さと美しさだけで自分の価値を決められるのはごめんだった。
やがて城を追われた彼女は、自らの美しさが、我が身を危険にさらすことを痛感し、醜くなるよう化粧をし始めた。
母の宝を取り戻しながら月猫亭を経営し、25歳を過ぎると年増として扱われるこの世界で、30を越えたあたりから、やっと店の舞台で踊ることができるようになったのだ。
年を取るのがうれしかった。
その気持ちが崩れたのは、アキオと出会った瞬間だった。
彼女は、この、底知れない目をした男に――そんなものがあるなんて思ったことはなかったが――一目惚れし、最高の自分を見せたくなったのだ。
不可能とわかっていても、かつて、絶世の美姫と言われた自分を彼に捧げたくなった。
そんな彼女を二つの驚きが襲う。
ひとつは、若返りが叶わぬ夢では無かったこと。
もうひとつは、アキオにとって見かけの美しさが何ら意味を持たないことだった。
ほう、とオプティカは溜息をついた。
実のところ、彼女は勘違いしている。
すれ違う人々が彼らを振り返って見ているのは、老いた風貌ながら、ゆったりと身体を前に押し出すように歩く逞しい男と、彼に寄り添って豊かな白髪を背中に流し、すっきりと背を伸ばして毅然と歩く女性の姿が、そこだけ切り取られたように異彩を放ち、あるいは精緻に作られた騎士物語のレリーフのように美しく見えたからだ。
「どうした」
溜息に気づいたアキオが尋ねる。
「い、いや」
オプティカは少し言い淀み、
「あらためて礼をいうよ、アキオ。ありがとう、あたしが飛び出すのを止めてくれて。あのままあたしが暴れてたら、大事になって、衛士がやって来て祭りを楽しむどころじゃなかったはずだ」
ほれぼれと彼を見て肩に頭を預ける。
「それを、あんたは釣銭と木串だけで治めてくれた。たいしたもんだよ。あれは硬貨であいつの膝を撃って倒したんだね」
アキオはうなずいた。
「たいしたことはない。力を加減するのは難しいが」
オプティカは、彼が小石でマーナガルの頭を吹き飛ばしていた姿を思い出す。
「あいつは命拾いしたわけだ……でも、放っておくと、またスタットに難癖つけるんじゃないかねぇ」
彼女の指摘にアキオが答える。
「祭りのあとで、この街の責任者に釘をさしておくか」
「い、いや、それはよしたほうがいいだろうね」
さりげなく発せられたその言葉に危険な匂いを感じたオプティカが慌てて止める。
「英雄王に事情を説明すればいいんじゃないかね」
「そうだな」
アキオがうなずいて、オプティカはほっとする。
彼女は、いつの間にかアキオの手から、少年から買い取った薬草の袋が無くなっていることに気づいた。
「さっきの薬草はどうしたんだい」
アキオはコートのポケットから小さな6面体を取り出す。
「それが?」
「圧縮した。必要なのはクロゲラの薬効成分だ」
ほどなく、ふたりは、通りに作られた円形広場に出た。
手をつないで広場の真ん中で飛沫を上げる噴水を眺める。
オプティカは、思いついてもうひとつ質問した。
「ところで、スタットに教えたあれ――名前はなんていうんだい」
「名前はない。以前、カマラがこの世界の大まかな植生を調べて分類してくれた。それを組み合わせて教えただけだ。ゲドヒ草はタンパク質、メイヒはカルシウムやナトリウム、カリウム、マグネシウム、リン等の無機塩類、パクス草は、鉄分と血液向きのタンパク質を豊富に含んでいる。すべて身体の成分だ。グレイ・グーは機能制限されたナノ・マシンだが、材料が豊富にあれば、内臓でも血液でも、身体の修復を活発にするようになる」
彼の話す内容は、正直なところ、大部分よくわからなかったが、その中のひとつの言葉に彼女が反応する。
「さっきの3種類の草で、流れ出た血まで作ることができるのかい!」
「水は必要だな。血液成分の多くは水だ」
「本当に?」
「不思議か」
「ドラッド・サンクが広めた話だと、ドラッド・グーンでさえ、身体は再生できても血は再生できないって話だったからね」
アキオが眉を上げた。
「ドラッド・サンクを知っているのか」
あれは一般には知られていない、国家にまたがる秘密組織だ。
「一応、王女だったからね」
言われてアキオはうなずいた。
国の中枢にいたなら、その名を耳にすることもあっただろう。
「人の身体は、ナノ・マシンで比較的容易に再生できる。脳であろうと心臓であろうと。ただ、脳内に形成された自我と記憶、シナプス・ネットワークの保存と再生が難しいだけだ。血液は身体の各部にガスや栄養素を運び、老廃物を回収するための媒体に過ぎないから、再生はさらに容易だ」
「でも、血を失った人に、他人の血をいれても死んでしまうって聞いたよ。それだけ血っていうのは特別じゃないのかい」
「単に、混ざることで血液中の血球同士が結合して血栓をつくる、血液型の組み合わせがあるだけだ。抗原抗体反応だな」
かつてシヅネは、血液に何か不思議な力が宿るとする風潮は、血液型が発見されるまで輸血に賭博要素があったためだろうと言っていた。
〈それに、傷はたいしたことなくても、血が流れ続ければ失血死するでしょう。吸血鬼が、血と生気を吸って生きる不老不死の怪物とされたのも、血液が全身を巡る不思議な物質と思われていたためでしょうね。不老不死という不可能を可能にするためには、何か不思議なものを身体に取り入れて生きている、という設定が必要だったのよ〉
その後、不老は彼女が消えたあとで彼が実現してしまった。
身体を破損しても死なない不死身性もだ。
しかしながら、彼が女性の血を欲しいと思ったことは一度もない。