547.月明
淡い月明かりの下、微かな寝息をたてながらアキオが眠っている。
その彼の、穏やかな寝顔を見つめていたオプティカは、そっと頬を厚い胸に預けた。
彼の体温は温かく、大きくゆっくりと響く心臓の音は彼女を安心させる。
かつて彼女は、隊商の馬車でアキオと共に数夜を過ごした。
横になっては寝なかったが、壁にもたれる彼の足の間に挟まれて座り、遠くで轟く海鳴りのような彼の鼓動を聞きながら目を閉じた彼女は、かつてないほど心地よい安眠を経験したのだった。
しかし――
その間、彼女はアキオの寝顔を見たことはなかった。
後に聞いた話では、あの数日間、彼は一睡もしていなかったらしい。
今は、彼女も体内にナノ・マシンを持っているため、数日寝なくても体調に問題がないことは分かっている。
ナノ・マシンが、身体を常に最良な状態に維持してくれるからだ。
だからアキオが、襲われる可能性のある護衛任務で寝なかったことは理解できる。
だが、シミュラによると、彼が寝ない本当の理由は、寝ると必ず悪夢を見て満足に安眠が得られないからだった。
「じゃがな、わたしを含め、妻たちと寝るとあやつは悪夢を見ないのじゃ」
シミュラの言葉を聞いて彼女は悲しくなった。
自分と、アキオをとりまく少女たちの間には、決定的な違いがあるのだ。
同時に彼女は、そう感じる自分に驚き、愛おしさも感じる。
王族として生まれ、数十年を生き、苦しいことや悲しいことは、ひと通り経験して耐性もできていると思っていた。
だが、風雨にさらされて硬くなった外殻の内側には、柔らかく瑞々しく傷つきやすい皮膚が残っていたのだ。
そんな彼女を見て、黒紫色の髪の少女は笑顔になる。
「なんじゃその顔は?心配せずとも、今のおぬしなら、アキオを穏やかに寝かせることができるはずじゃぞ」
シミュラの話では、アキオの体内のナノ・マシンを与えられた者は、ナノ・マシン同士が同期して彼を安眠させることができるのだという。
同時に、お互いの気分を色彩で感じることも……
「安心せい。おぬしの身体にはしっかりとアキオのナノ・マシンが入っておるからの」
そう言って背の高い彼女の肩を叩き、
「まあ、実際は、あやつを強く想って肌を合わせれば、かなりの程度、悪夢を抑えられるのだがな。わが朋輩カマラは、かつてナノ・マシン抜きであやつに安眠を与えたことがある」
シミュラの言葉を思い出して、彼女は彼の腕を抱きしめ、指を絡めた。
太腿で彼の身体を挟み、腹、胸を当てる。
長身の彼女でも、彼のすべてに手脚を届かせることはできないが、触れた部分から、温かく心地よい感触が広がった。
これが愛する人を抱き、抱かれるということ――
オプティカは内心でつぶやく。
これまで、多くの女たちを、彼女の眼鏡にかなった男たちと娶わせてきた。
いざとなったら身体で虜にしろ、とけしかけたことも多々ある。
だが、男女が肌を触れ合う、その本当の意味を自分は知らなかったのだ。
ただ知識として、彼女たちに教えていただけだった。
もっとも、彼女の言葉で行動を起こした女たちは、たいていうまく男を陥落させていた。
要するに、きっかけさえ与えてやれば、本能に従って行動する女たちは正解にたどりつくのだ。
問題は、この規格外れの男に自分の本能が通用するかどうかだが――
そう思いつつ、彼女は、アキオの胸に顔をこすりつける。
その瞬間、温かい光がオプティカを取り囲んだ。
ああ――
少女が声を上げた。
これが、光。
なんて暖かで美しいんだろう。
これが、アキオ自身からナノ・マシンをもらった証。
話によると、少女たちの多くは口移しで彼からマシンを受け取ったらしい。
自分は口からもらっていない。
なんて羨ましい。
その話を聞いた時、思わず感情が顔に出たらしい。
シミュラが笑顔になる。
「うらやむでないぞ。なにせ、おぬしは、ただ一人、わが王から心臓を貰った者じゃからな」
その言葉を思い出し、オプティカは胸をアキオに合わせた。
彼女の内臓は一般の人間とは左右逆らしいので、すこしだけ左寄りにする。
穏やかな心音がゆっくりと重なって、彼女は笑顔になった。
アキオの二つの心臓が、こうやって生きて動いている。
彼の心臓を分け与えられて、自分は生かされているのだ。
ふと気づくと、寝息の止まったアキオが目を開け、彼女を見ていた。
喜びのあまり、強く身体を締め過ぎたらしい。
「ご、ごめんよ。起こしちまったね」
彼女の謝罪に彼は首を振る。
オプティカは彼の顔を見た。
月明かりの中で、彼の瞳が輝いている。
起きたんだから、いいね。
そうつぶやいた彼女は、寝る前に、彼からされた注意にしたがって、身体を上に引っ張ると彼に口づけた。
強く、深く、長く口づける。
やっと唇を離した時、アキオが言った。
「激しいな」
「そうさ。なんせ数十年分の想いがこめられてるからね」
「そうか」
「アキオ、聞いてなかったけど、朝には帰るのかい」
「いや、明日は一日空いている。君がよければ――」
「あたしも休みなんだ!」
咳き込むようにオプティカが言う。
「いま、シュテラ・エミドで祈念祭をやってるんだ。明日は最終日なんだよ……連れて行ってくれるかい」
祈るような目でオプティカが彼を見る。
「行こう」
「ありがとう!」
オプティカは、そう叫んで、もう一度、彼に長い口づけをするのだった。