546.深夜
彼女は、カウンター越しに店内を見回した。
まだ、数人の客が残っているが、見たところ問題を起こしそうな者はいない。
時刻は真夜中近く、専属のケシュラ弾きが、音量を落として、ひっそりと奏でる悲し気な曲が店内を流れている。
男たちは、それぞれに、横に座った女たちと言葉少なに静かに会話を交わしていた。
「それじゃあ、あたしはこれで上がらせてもらうよ」
店内の良い雰囲気を壊さないように、小声で言う。
「部屋にいるから、何かあったら呼んどくれよ、タントーラ」
振り返った彼女は、実質的な店の主である副店長にそう命じ、カウンターを出た。
「明日は、久しぶりの休みでしょう。どこかへお出かけですか」
「あたしみたいな年寄りが、独りででかけてどうするんだい。部屋で――」
頭に浮かんだ、あの人のことを想って過ごす、という言葉を抑え込んで彼女は続けた。
「酒でも飲んで過ごすさ」
タントーラは、店の女たちに比べれば年を重ねてはいるが、まだまだ美しいその顔に苦笑を浮かべて言う。
「たまの休みにお酒ですか」
酒を扱う仕事であっても、普段、彼女が一滴も飲まないことをタントーラは知っている。
「あまりお過ごしなりませんように」
副店長の言葉に、軽く手を振って振って答えると、彼女はカウンター後ろの扉から静かに部屋を出た。
「お疲れ様です。マフ姉さん」
背中で挨拶を受け止めながら彼女は扉を閉め、黙って店の隣の建物に向かう。
綺麗な月が路地に差し込んでいた。
右手で左手首に触れながら階段を上がっていく。
その背が高く軽い足取りは、もはや老人のものではない。
窓から差し込む月明かりに仄に浮かび上がる部屋に入ると、そのまま壁際に作りつけの戸棚に進んで、扉を開けて中から酒瓶とカップを取り出した。
部屋中央の丸テーブルの前の椅子に腰かける。
明かりをつけないままカップに酒を注ぎ、飲もうとして、その手を止めた。
物の少ない質素な部屋の、ただひとつの贅沢品である壁に掛かった大きな鏡に目をやる。
その中で、月明かりに照らされた、ひとりの少女が、形よく足を組んで椅子に腰かけ、カップを手にしたままこちらを向いていた。
豊かなフリュラの花の色をした髪は波を打って腰まで流れ、細いうなじ、形の良い肩、すっきり伸びた背筋は、内側から溢れる若さを示している、が――
彼女の表情は、暗くはなかったが寂しげだった。
こうして夜毎、部屋に戻る度に、彼女はマフェットからオプティカに戻っているのだ。
その理由はただひとつ。
彼が来た時に、美しい自分を見せたいから。
でも、今日も無駄だった。
鏡に映る自分の顔を見て苦笑すると、彼女は酒をひと息に飲み干そうとした。
その手がとまる。
窓の横に大きな人影が見えたからだ。
月明かりを避けて窓辺に立つ黒い影。
かつてそれは恐怖の対象だった。
なぜならば、それは暗殺者。
なぜならば、それは死。
長らく彼女は命を狙われていたのだ。
でも、今は――
零れんばかりの勢いでカップをテーブルに置くと、彼女は影に走り寄った。
倒れるように抱き着く。
「やっと来てくれた」
影の手が彼女の髪に触れ、やさしく頭を撫でる。
「待たせたか。すまない」
「ああ、アキオ、アキオ。来てくれただけで嬉しい」
一連の騒動が終わって研究生活に戻った彼は、時計のように正確な毎日を過ごしていた。
そんな彼の背中を、ユスラをはじめとする少女たちが押したのだ。
「きっと待っておられます」
「夜の蝶じゃからな。外に連れ出して陽の光を浴びさせてくるのじゃ」
「ティカさまのシュテラ・ミルドの近くのシュテラ・エミドでは、お祭りが開かれています。連れて行ってあげてください」
さまざまなアドバイスを受けて、彼はオプティカの住む、シュテラ・ミルドにある月猫亭にやって来たのだ。
ただし、出かける前に起こった小事件のため、到着は深夜になってしまった。
「こんな時間になったが、大丈夫か」
「かまわないよ。どうせ明日は休みだから!」
オプティカは叫ぶように言う。
「そうか」
しばらく後――
「アキオ」
名を呼ばれて、彼はオプティカを見た。
今、ふたりは、彼女の部屋に置かれた脚付きの浴槽で湯に浸かっている。
アキオの上にオプティカが乗って、彼が後ろから抱きしめる格好だ。
浴槽は、前回、彼女を部屋に送った際に彼がセイテンに積んだナノ素材を使って作っておいたものだ。
当時、死の淵から蘇った彼女の体調はまだ万全ではなく、栄養をとってナノ・マシンを活性化させる必要があった。
材質を乳白色の陶器に似せた、縦に長く底の浅いタイプの浴槽で、かつてのナノ・ボードを組み合わせたものとは違って、湯を沸かす仕掛けは浴槽に仕込んである。
怪我が治ったいま、ナノ・マシンを体内に持つ彼女が入浴する必要はないのだが、一度使ってみてその心地よさを知った後は、毎日のように、湯に浸かっているらしい。
会ってすぐ彼に抱きつき、ひとしきり甘えたあとでオプティカが彼に頼んだのだ。
「ア、アキオ、あんたは、毎晩、お城の子たちとお風呂に入ってるんだろう」
「そうだ」
「だったら、あ、あたしとも入っておくれよ」
彼はオプティカの顔を見た。
若々しく大きな目が真剣に彼を見つめ、薔薇の蕾のような唇が少し震えている。
かなりの決意で、彼に頼んでいるようだ。
アキオは、白鳥号でも、彼女が胸を隠していたことを思い出した。
その点で、彼女は王族であるのにユスラやピアノとは違うようだった。
彼女たちなら、当然のように全裸で彼の前に立つ。
「いいとも」
彼が答えた。
前回の戦いでオプティカの胸には彼の心臓が入っている。
会ってすぐにアーム・バンドの数値で彼女の健康状態は確認したが、傷口がどうなっているかは目視した方がよいだろう。
「どうした」
名を呼ばれて応えると、オプティカが首を回して彼を見た。
彼女が恥ずかしがるので明かりはつけていない。
いまも窓から差し込む月明かりだけが部屋の光源だ。
彼女の目の中に、月明かりに浮かんだ自分の姿が映る。
「いや、温かいね。それに、背中に当たるアキオの肌が気持ちいい。男に抱かれるっていうのはこういうことだったんだね」
彼女は彼の手を取ると、胸に押し当てた。
「この中で、あんたの心臓が動いているんだ」
「ああ、傷もほぼ消えているな」
「アキオ」
彼は空いた手で彼女の頬に手を触れた。
「改めていうよ。ありがとう、命を救ってくれて。今夜、来てくれて」
そういうと、彼女はくるりと身体を反転させて、彼に身体を密着させながら、腕を彼の首に回す。
長身の彼女は手足も長い。
そのまま身体を引き上げて、彼に口づけた。
そのまま、じっとうごかない。
やがて、ゆっくりと唇は話すと彼の頬に自分の頬を当てながら、溜息をつくように言った。
「ああ、やっとできた。前に初めてしてから、ずっとしたいと思ってたんだよ。もう一度していいかい」
その言葉でアキオは苦笑する。
長く市井に生きるオプティカも、男女の行動の機微には疎いようだ。
毎日の少女たちの暮らしの中で、彼にも知識としての常識というものは育っている。
それに照らして――いちいちそう考えること自体が、常識でないことを彼は気づいていない――アキオは言った。
「そういう時は、わざわざ尋ねないものだ」
「え」
オプティカが驚いた表情を見せた。
もちろん、彼女は男女の機微について分かっている。
ただ、これまでの言動から、そういったことに疎いらしい彼には、きちんと確認をした方が良いと考えたのだった。
アキオの真面目な顔を見て彼女は微笑んだ。
そして答える。
「わかった。気をつけるよ」
そしてオプティカは甘い香りのする唇を彼に重ねるのだった。