542.憤怒
「あら」
フレネルが可愛く声を上げた。
「お客さまなんて、珍し――」
少女の言葉が途切れる。
「何をする!」
ケイブが強く叫んで飛び出した。
彼女のしなやかな手を引いて自分の背後に回す。
彼の顔の直前で、大きな拳が止まって震えていた。
拳が止まっているのは、サフランが細い指先で、丸太のような男の腕をつまんで止めているからだ。
ケイブは、殴りかかった男の眼が怒りに吊り上がっているのを見る。
先ほど母屋で会って挨拶を交わした時は、さほど友好的ではなかったが、落ち着いた様子だった。
それが、いきなりの激高だ。
訳がわからない。
「やめなさい、ゴルドー。落ち着きなさい」
角のある少女が命じ、男が腕を引いた。
サフランは、何事もなかったように彼の腕を離して口を開く。
「勘違いをしてはいけません。この女性は、あなたを虐げた者ではありません」
「あの時はもっと痩せていたが、この女に間違いない。嘘をいうな」
「嘘、ですか」
藤色の髪の少女が小首をかしげ、
「サフランさまは嘘などつかない。ひかえなさい、ゴルドー」
オレンジ色の髪の少女がきつい声をだす。
「しかし、スぺクトラ、俺は確かにあの女に――」
「あなたはヒトになったのでしょう?だったら、全てを真っ先に暴力で片付けようとするのはやめて、まず話し合いをしなさい。前にいいましたね」
「そ、それはそうだが……」
自分を蚊帳の外に置いて続く会話を聞きながら、ケイブは冷や汗を流していた。
ナノ・マシンによって強化されていた頃の身体ならともかく、ただのヒトになった彼に、大男の暴力を防ぐ手立てはない。
だが――
彼の背後で身体を震わせる少女の存在が、彼に勇気を与える。
「フレネルが何をした」
ケイブの言葉に大男が反応した。
「何をした、だと!」
男の目が再び怒りに燃え上がる。
「その女は俺を暗い穴倉に閉じ込め、日々いたぶった」
そう言われても、当然ながらフレネルは何も反応しない。
しかし、ケイブは驚いて叫んだ。
「まさか、おまえは……あのゴランか」
普通ではありえないことだが、超常の存在であるサフランならば、ゴランを人に変えることぐらいはやってのけるだろう。
「なぜ、お前は俺を知っている」
そういって、ゴルドーと呼ばれた男は灰色の瞳で彼を見つめた。
「その声、体つき……まさか、お前、あの仮面の男か、俺をつかまえた」
どうやら、ゴルドーがあのゴランであったことは間違いないようだ。
ケイブは納得する。
ならば、こいつが憎むべきは――
「そうだ。お前を捕まえたのは俺だ。だから、お前が俺を憎むのは間違ってはいない。だが、洞窟でお前と話していたのは彼女じゃない。勘違いするな」
「つまらぬ嘘を」
吠えるようにゴルドーが言う。
うららかな陽気の庭園の温度が数度下がるような威嚇の声だ。
「本当ですよ」
サフランの声が穏やかに響く。
「ゴルド―」
角の生えた美少女が再び静かな声を出す。
「サフランさまは嘘などつかれません。事情は伺っています。彼女はあなたとは初対面です。あなたは、わたしも信じられませんか」
「い、いや、スペクトラを……信じる」
スペクトラと呼ばれた少女は、声を荒げたわけではない。
ただ静かに、諭すように言っただけだ。
だが、ゴルドーは、まるで叱られた子どものように身を小さくして、頭を下げるのだった。
「まあまあ」
サフランが、ふたりをとりなすように声をかける。
「あ、あの――」
ケイブを押しのけて、サフランが顔を現した。
「ゴルドーさま」
声をかけながら彼に近づく。
止めようとするケイブの腕を振り払って。
「わたしは、あなたさまとお会いするのは初めてです。ですがゴルドーさまが、わたしから何かされたとお思いなら、それは正しいはずです」
「な、なんなんだ」
自分を見上げ、訴えかけるように話す少女から眼をそむけながら、ゴルドーが、サフランとスペクトラの顔を交互に見た。
スペクトラが事情を話す。
「ひとつの身体にふたつの精神」
大男がつぶやく。
「信じられませんか」
「いや、あんたがいうなら本当だろう」
「それで、どうします」
「どう、とは」
「彼女の中には、あなたを苛んだ女性もいるのですよ。前回、表に出た時に尋ねたら、あなたに謝りたいとも言っていましたが……」
ゴルドーは黙って、彼の前で頭を垂れる少女を見ていたが、やがて言った。
「どうもしねぇよ」
「復讐をしないのですか」
「あの女を殺すと、この小娘も死んじまうんだろう。あいつには腹が立つが、こいつには恨みはねぇからな」
サフランとスペクトラが、穏やかに笑みを交わす。
「合格ですね」
スペクトラは彼に近づいた。
「ゴルドー」
「なんだ、スペクトラ」
「あなたに謝罪します」
彼を見つめる。
「なんでだ」
「あなたを試しました」
そういって深く頭を下げるスペクトラを見て、彼は困惑顔でサフランを見た。
「スペクトラから相談を受けたのです。あなたをゴランからヒトにしましたが、あなたの体力は、まだ人間以上。もしあなたがゴランの時と同様、怒りの閾値が低く――」
「スレ?」
よくわからないという顔をするゴルドーに微笑んでサフランは言い換える。
「怒りを抑えられず、すぐに激怒したり、いつまでも執念深く恨みを持ち続けるようなら、あなたを従者にはできない、と」
ゴルドーがスペクトラを見る。
「そこで、過去にあなたと接触のあったリリーヌ=フレネルさまを会わせて、その反応で、あなたを従者にするかどうかを決めることにしたのです」
「そうだったのか」
「できれば試すような真似はしたくなかったのですが……フレネルさま、コンケイブさまも申し訳ありませんでした」
「いいえ、リリーヌが犯した間違いは、わたしが償わなければなりませんから」
フレネルが言い、
「俺からも謝る。ゴルドー、すまなかった」
ケイブも頭を下げた。
「お前は俺より強かっただけだ。謝ることはない」
そう言って首を振る大男を見て、スペクトラがため息交じりに言う。
「その考えも、追々変えていかねばなりませんね」
「さて」
サフランが、パンと手を打った。
「皆さんが仲直りしたところで、母屋で一緒に食事をしましょう」
食事は落ち着いた雰囲気のまま進んでいった。
ゴルドーは、もとゴランとは思えないほどナイフとフォークの扱いが巧みだ。
食事が終ると、
「フレネル、ケイブ」
サフランが真面目な顔になってふたりを見た。
「今、育てている菜園の収穫が終われば、ふたりにはここを出てもらいます。外の世界で社会の一員として農作物を育てながら、3人で過ごして欲しいのです」
「わかりました」
ケイブが口を開くまえに、フレネルが答える。
「でも、どこに行けというんですか。どこかに良い場所が――」
「あります」
サフランが、この日、一番の笑顔になってふたりに告げた。
「サンクトレイカにある農園で、かつてのわたしの夫だった方の出身地でもある場所――名前はシャルレ、シャルレ農園」