533.招集
彼女の毎日は規則正しく、王都の6時の鐘の音と共に始まる。
服を着替え、顔を洗い、両親に挨拶し、食事を摂る。
最近は、顔を洗った後に髪をとかす作業が加わった。
5人兄弟の中で、彼女だけが母から受け継いだ豊かで美しい青い髪だ。
食事の後は、庭で一番下の弟と剣の稽古をする。
それを午前中いっぱい使って行い、部屋に戻って汗を拭くと、昼食後は、自室で机に高く積み上げられた資料を読むのだ。
夕方近くになると、士官学校から帰って来た下から二番目の弟と再び剣の稽古をする。
職業柄、日々の出仕は求められていないため、普段は屋敷にいて、いつ任務が与えられても、すぐに動くことができるよう怠りなく体調を整え、知識を蓄える毎日だ。
意思の強い彼女が、この生活を崩すことはない。
ただ、無表情に淡々と任務の合間の日々を過ごすだけだ。
だが、彼女と間近で接する弟たちは、姉の微妙な変化に気づいていた。
稽古の合間に彼女が、ふと遠くの空に目を向けることがある。
あまつさえ溜息のようなものをつくことすらあるのだ!
これは、まちがいなくアレだ。
ふたりは、他の家族には内緒で話し合う。
彼らの自慢の姉は、おそらく恋をしている。
それも叶わぬ恋を。
まるで身なりなど構わなかった姉が――もともとの素材が良いため、それでも充分美しかったが――朝から髪をとかすようになっているのだ。
男兄弟の中で育ったためか、男性というものに憧れや過度の期待を持たず、恋などという現象からほど遠いと思っていた美しい姉。
いったい彼女が好きになるのは、どんな男なのだろう。
彼らの知る限り、姉を取り巻くまわりに彼女を虜にするような男は思い当たらない。
任務の途中で出会った人物だろうか。
そんな弟たちの思惑をよそに、彼女は毎日を過ごしていた。
しかし、昨日と変わらぬ今日を生きながらも、時折、彼女の胸は激しくしめつけられるのだった。
理由は分かっている。
だが、同時に、どうにもならないこともまた分かっている。
苦しみから逃れるために、彼女は次の任務を渇望した。
こんな時に限って、なかなか仕事が与えられない。
職業柄、目立って顔を覚えられるようなことをしてはいけないのだが、息苦しさのあまり、彼女は国軍の練兵場に出稽古に行くことまで考え始めていた。
そんな折、直属の上司ではなく、宰相から呼び出しを受けた彼女は城へ出向いた。
何事だろう、と彼女は思う。
滅多にないことだ。
そこには思いがけない人物が彼女を待っていた。
宰相の執務室に案内された彼女は扉をノックする。
「入りなさい」
声に応えてドアを開けた途端、何かが彼女を目がけて飛んで来た。
城内のため帯剣はしておらず、迎撃はできない。
咄嗟に身を屈めて避けようとしたが、それは彼女を追ってきた。
身体に巻き付くと、ものすごい力と勢いで引き寄せる。
気づくと、黒紫色の瞳がすぐ近くで彼女を見つめていた。
「久しぶりじゃな。だが、こうなることは予想しておったぞ」
「シ、シミュラさま」
猫のような、釣り気味の大きな目が悪戯っぽく微笑むのを見て、彼女はその名をつぶやいた。
「そうじゃ、わたしじゃ。久しぶりじゃな。ジャッケル、いやデルフィよ」
とん、と彼女を床におろして美少女が呵呵と笑う。
「あまり驚かさないでやってください」
美しい外相が困り顔で言った。
「すまんな。個人的にわたしは此奴が好きなのでな」
そう言いながら、シミュラは彼女の乱れた髪を手櫛で直してくれる。
「うむ。以前と違って、ちゃんと髪を梳っておるようだの。理由は訊かずともわかる。可愛い奴じゃ」
「う、う」
二の句を告げない彼女に向け、シェリルが口を開いた。
「デルフィ・ソラノ、あなたに特別任務を与えます。シミュラさまと共にヌースクアムに行き、そこで命令をうけなさい」
「え」
事態の急変についていけない彼女が眼を丸くする。
「復唱はどうしました」
はっと我に返ったデルフィが、背筋を伸ばして復唱する。
「わかりましたね。ああ、確認しておきますが、これは潜入捜査ではありません。念のため」
「はい――」
潜入捜査官という仕事柄、彼女の身は軽い。
常に城に置かれている任務用の手荷物をひとつだけ持って、シミュラとともに彼女は駒鳥号に乗り込んだ。
家族と住む屋敷には任務に就く旨だけを知らせておく。
これもいつものことだ。
「その任務というのは、どういうものです」
シミュラと並んで駒鳥号のシートについた彼女が尋ねる。
「慌てるでない。向こうにいけばわかる。それより茶を飲もう」
彼女の合図で、壁際にひかえていたライスが近づいてくる。
白磁のカップに琥珀色の茶が注がれる。
「よい香りですね」
「うむ。菓子も食べるが良い」
遠慮がちに堅焼菓子に手を伸ばすデルフィを笑顔で見ながら、シミュラが問う。
「ここ最近はどう過ごしておった」
「次の潜入捜査に備えていました」
「うむ。それ以外は」
「何もしていません」
「本当か?わが王、アキオのことを――」
頬を染めるデルフィを見て、シミュラは声を上げて笑い、
「名を聞くだけでその反応、良いぞ良いぞ」
「からかわないでください」
「いや、おぬしには大切な仕事を任せるのじゃ。それはアキオのためになる。ヌースクアムについたら、きっと驚く出会いがあるじゃろう」
そう言ってシミュラは、話題を変えた。
「え、シッケルにお子さんが?」
デルフィが声を上げる。
彼自身から、夫婦仲は睦まじいが、子供はいないと聞いていた。
おまけに、ふたりとも、もう若くなかったはずだ。
「ああ、あの件で、見かけはともかく、シッケルの奴の中身は若がえってしまったからの。釣り合いが取れるように、妻のメイラも若返らせて、ついでに不妊の原因も取り除いたら、たちまち子供ができたようじゃ。仲のよいことじゃの」
「それは――ユーフラシアさまもお喜びでしょう」
「その名の王族は死んだ。いまはオプティカじゃ」
「はい」
「ま、あやつにはアキオがおるからな。二重の幸せというやつじゃな」
「そ、そうですか」
「さあ、もうすぐ着くぞ。降りる準備をせよ」
「わかりました」
ジーナ城に着くと、デルフィは談話室へ通される。
しばらくシミュラと、とりとめのない話をしていると、扉がノックされドアが開かれた。
緑の髪の小柄な美少女、シジマが現われる。
挨拶をしようとするのを手でおさえ、彼女は背後から一人の人物を前に押し出した。
「紹介するよ。彼女はラーカム。閉ざされた山の上からやって来たんだ」
その少女も、シジマに負けず劣らず美しかったが、彼女を驚かせたのはそこではない。
彼女には、ピンと立った猫のような耳と、優美に揺れる尻尾があったのだ。