529.進化
「アキオ」
静かに名を呼ばれて、彼はラピィを見る。
「わたしにも耳と尻尾があった方がよかった?」
「いや」
アキオは、彼女の顔を覆う山ぶどう色の豊かな髪をかき上げて頬に手を当てる。
「君は君だ」
「うん」
彼女はそういって、形の良い鼻を彼の耳にこすりつける。
ケルビであった時にアキオによくやった仕草だ。
人型になっても、その癖は抜けないらしい。
「アキオ――」
彼の指に指を絡ませながらラピィが囁く。
「わたしの手は、ルサルカさまに比べたら大きいよね」
彼女は、繋いだままの手を持ち上げて、矯めつ眇めつ眺めながら言う。
「そうだな」
身も蓋もない口調で彼が答え、
「だが、俺の手に比べたら、小さく、か弱そうだ」
確かに、彼の武骨な掌に包まれた彼女の細長い指は、大きくはあるが女性らしい形をしている。
「そうかな」
ラピィがつぶやく。
彼女は、ただ単純にケルビの脳を、ナノマシンを利用して人の肉体に移植した生物ではない。
サフランが、キラル症候群を治療すると共に、ケルビの身体のまま進化を加速させて人型にまでした特異な存在なのだ。
ケルビは、とにかく死なない身体を目指して進化、開発された種だ。
そのため、ドラッド・グーンは、初めのうちは技術力の不足からケルビの小型化ができず、大きな生物しか作ることができなかった。
時間をかけ、やがてその技術を開発した時には、ケルビ種の性格が穏やか過ぎる――歯に衣着せず言えば覇気に乏しい――ため、アラント大陸の後継者として相応しくないと判断し、この星の主の座から去らせたのだ。
だが、封印の氷の戦いのあと、彼女のたっての希望で、当初の予定通りラピィは人型に進化した。
今も、ラピィの身体の中では、3つの心臓、4つの胃、2つの肝臓が動いているため、人間の女性よりひと回り近く大きくなってしまっている。
「小柄になりたいのか」
率直にアキオが尋ねた。
「そ、そうだね。地球の物語でも、ヒロインは、アルメデさまやルサルカさまみたいに可憐な女性がほとんどで、わたしみたいなゴツい女はいないから」
「だが――」
アキオは、顔を動かして彼女の身体を見る。
朝の日差しは徐々に明るさを増し、ベッドの白いシーツの上で彼に身体を預ける赤みがかった裸体を浮かび上がらせている。
ラピィは、自分をいかつい体型だと言うが、均整からすると、彼女が憧れるアルメデとあまり変わらない。
彼には、肩幅と腰回りが僅かにしっかりしている程度に思える。
強度のある骨格に乗った筋肉、力強く割れている腹筋も生物として好ましい。
もちろん、アキオは、それが彼女の言うゴツいという意味であることに気づいていないのだが――
彼は、絡められた指をほどいてラピィの腕に手を触れた。
軽く押さえながら指を二の腕まで移動させる。
「ひ、ゃ」
ラピィが、彼が聞いたことのない可愛い声を上げた。
「痛いか」
「い、いや、驚いただけ。でも、なぜ?」
「筋線維が密で柔らかい、ミオグロビンが豊富で酸素の含有量が多い素晴らしい筋肉をしている」
「そ、そう?」
「それに――」
「それに?」
「元の姿も、今の君もどちらも美しい」
「ほ、ほんと」
ドンファン顔負けの女殺しの台詞だが、アキオはまったく違う意味で、この言葉を口にしている。
要するに、彼女の姿が、ケルビのようにしっかりとした骨格で筋量豊富で安定感のある素晴らしい人型の身体だ、と言っているのだ。
「うれしいな」
ケルビの女王は、赤い肌をさらに紅く染めて彼の手を頬に当てて、うっとりと目を閉じた。
長い脚を彼の足に絡める。
目を瞑ったまま歌うようにラピィは言う。
「カマラと同じで、わたしの役目はアキオを守ることだと思う。物語のヒロインとは違う役回りだけど、そこはいい。そのために、この身体が役に立つなら嬉しい」
アキオは、ラピィの山ぶどう色の髪に手を回し、腕に抱いた。
どう答えるか考えたのち、最初に浮かんだ言葉を言う。
「ありがとう」
そして目を閉じる。
ナノ・マシンのシンクロによって、彼女がラピィであった頃と同じようにアラント大陸の豊かな自然のイメージが流れ込んでくる。
数十年にわたり、馬車を牽いて各国を回った彼女の記憶の総体だ。
大きく、強く、大陸に恐れるもののないケルビとして過ごした彼女の心に、不安や恐怖はほとんどない。
静かで穏やかな記憶があるだけだ。
ラピィの記憶――それは言葉ではない。
緩やかなイメージの輪郭だ。
アキオたちは、未だ科学的な理論に基づいて、明確な、意思、記憶、理論や情緒を、言語を使わず伝えることはできない。
それが、現段階で、他の生物に記憶や人格を転移できない理由のひとつだ。
だが、気分や感じならナノ・マシンの同調で伝わる。
そして――彼はラピィの穏やかさと、孤独が好きだった。
孤独。
ナコーンラーチャシーマ奪回作戦で出会った象をはじめ、彼が交流した強く大きな生き物は、一様に、その心に孤独を持つ者が多かった。
問わず語りにシヅネに話した時、彼女は、それは彼らが大きく強すぎたからなのよ、と言った。
自らを省みることなく、つまり内省なく戦い続ける肉食獣なら、ただ、自分の強さに酔って一生を過ごすことができるだろう。
しかし、特に知性の高い動物、深く自分の心を見つめる生き物なら、たとえ無自覚であっても、生まれついての自分の強さを恐れるに違いない。
軽く触れたつもりでも、相手は簡単に死んでしまうのだから。
それゆえ彼らは孤独になるのだ、と。
アキオは、その話をラピィにする。
「それはあるかもしれない……ゴランには負けないけれど、仲間同士で本気を出して戦いあったら、丈夫なわたしたちでさえ、容易に大けがをしてしまうから」
彼はうなずいた。
ケルビの強さはドッホエーベで良く知っている。
「でも、それはアキオも同じでしょう」
「俺が」
彼は不思議そうな声を上げた。
それは考えたことがなかったのだ。
「確かに――」
不意に澄んだ声がすぐそばで聞こえる。
「アキオさまからは孤独を感じますね」
そう言ったあと、
「急にお話に割り込んで申し訳ありません」
ルサルカが謝った。
「目が覚めたか」
「はい」
「あの、どのへんから話をきいていました?」
「ほんの少しですよ。耳と尻尾があった方が良かった、あたりからですね」
「全部じゃないですか」
以前、どこかで聞いたような会話だ。
ルサルカは、ふふ、と鈴を転がすような声で笑い、
「ラピィさま。あなたは本当に素敵な方ですね。大きくて、優しくて、美しい」
彼女は手を伸ばし、ラピィがその繊細な手を取る。
そうして、アキオを挟んで、ふたりの人ならざる美少女は手を握り合うのだった。