512.推薦
最後にアキオの胸に顔をこすりつけてからシジマは身体を離した。
「ありがとう、ごめんね。もう大丈夫だよ。落ち着いたから」
そう言って微笑む。
どうした、と彼は問わない。
自分が、シジマたち普通の人間のような感性をもっていないことを知っているからだ。
同じものを見ても、彼女たちが、自分とは違う部分で感動し、涙を流すことはよくあるのだ。
「この本から分かるのは」
しっかりとした口調に変えてシジマが話し始めた。
「マブゼ博士と、その友人、ラモル博士が二手にわかれてスーリバッドを出たということだね。その際に、何らかの強化処置を身体に施した、と」
科学者ではないリジリィは、そのあたりを詳しく書き残してはくれていない。
「重要なのは、ここだね」
本を開いて、少女が細く綺麗な指先で指し示す。
「ここに、マブゼ博士とラモル博士の左目に機械が埋め込まれている描写がある。これは科学局員の標準装備らしいよね、つまり――」
シジマの言葉をアキオが引き継ぐ。
「かなりの確率で、フウは科学局の豹人だ」
「うん。捕まえたフウを簡単に調べたけど、明らかに細胞自体が強化されていた。それによって彼らは長く生き、装備していた機械の方が先に壊れて左目にぽっかりと穴が開いてしまったんだ」
「そうだな」
「なぜ彼らが都市を出たか、について、本には書かれてないけど、フウたちの今の知能と、明らかに豹人とは違う体つきから考えて、強化の弊害が出て都市をでるより他無かった、と考えるべきだろうね」
そこまで言って、シジマがアキオを上目遣いに見る。
「マブゼとラモル博士は、捉えた5人の中にいると思う?」
「わからない」
リジリィの物語では、マブゼ博士は身体の大きい普通の豹人だった。
それ以外に、何か大きな特徴があれば識別できるのだろうが、捕まえたフウたちに目立った特徴は見られない。
「サフランがフウを豹人に戻してくれれば、詳細がわかるだろう」
「でも、大丈夫なのかな」
シジマが眉間に皺を寄せる。
「だって、サフランの融合人格の一つ、ジュノスが浮遊都市を落としたんでしょう。虐待とまではいかなくても、ちょっときつく当たったりしない?」
「いや」
アキオは、そのことを尋ねた時のサフランの表情を思い出しながら答えた。
「彼女には、そんな非道なことをした記憶は残ってないそうだ。知っての通り、長期間に渡って生きるドラッド種は、同時に直感映像記憶を持っている」
「写真みたいに、見たものをそのまま記憶する能力だね。人間も子供の時には持っていて、育つにつれて消えてしまう」
「確か、君にはまだ残っているんだな」
「ボクのはそれほど完璧じゃないし、意識しない限り発動はしないよ」
「ドラッドたちは、それを持ち続けているから、目にしたものをその時点まで遡って、さらに拡大して確認することもできる。科学実験をする時の強みだな。ただ――」
「うん、そんなことをしたら、脳の容量を簡単に越えてしまうよね。人間のように忘れる能力を獲得しないと」
「そうだ。もともとのドラッドの本体は巨大で脳も大きく複数ある上、データを4次元的に畳んで圧縮し、脳内をパーティション化してインデックスをつけているから、数億年程度では許容限界越えしないらしいが……」
「その代わり、定期的に、情報整理のために長い睡眠が必要になる、だね」
「そうだ」
「そういえば、グリア細胞内に、リムソニアっていうナゾ器官があって、次元を越えて瞬時にデータ転送されるから、とんでもない思考速度になっているとも聞いたよ。さすが異世界の超生物。あまり詳しく尋ねるとサフランが恥ずかしがるから、今のところは我慢しているけどさ。いつか調べたいね」
「急す必要はない」
「もちろんだよ」
アキオは、シジマの頭を撫で、
「そのすべては、本体の能力であって、サフランは、いわゆる素体に意識が転送された分身だ。だから彼女には、過去の明確な記憶がない。インデックスのようなものを持つだけだ」
「まあね。どれほど高密度に折りたたんだとしても、ボクらの脳の許容量は何万年もの直感映像記憶には耐えられないから」
「いずれ本体と接触すれば、詳しいこともわかるはずだ。近いうちに戻るそうだから、それで事情はわかる。だが、おそらく彼女は、故意に浮遊都市を落としてはいないだろう」
「そうだね、どんな理由があるにせよ、何百万人もの豹人を、意図的に殺して忘れているというのは考えにくいもの」
シジマは腰かけた公園のベンチで、膝に乗せた本を撫でながら続ける。
「ただ、シスコたちと混ざったサフランと違って、かつてのジュノスは、思考にヒト成分が少なかったみたいだから、豹人の殺害にあまり良心が痛まなかったのかもしれない。記憶に残らない程度にね」
そう言って、さっとシジマは立ち上がった。
アキオに手を差し出す。
「もう少し、一緒に歩いていい?」
彼は少女の手を取って立ち上がる。
「もちろんだ」
ふたり並んで歩き始める。
「アキオ」
シジマが呼びかける。
「さっき、遠くで子供たちが遊んでいるのを見ていたね。子供が好きなの」
彼は少女を見た。
そして困る。
実のところ、彼は子供が好きでも嫌いでもない。
これまでの人生で、ほとんど接点がなかったからだ。
少年時代、一度だけ任務でグルメニア、かつてのアゼルバイジャンのカスピ海沿岸の街ザクーで、難民キャンプの子供たちに混じって生活したことがあったが、彼らは、子供というより、小さな大人という印象だった。
さっき、彼が子供たちを見ていたのは、うららかな陽ざしの中、彼らの遊ぶ声が遠くに聞こえる様子が、子供の頃過ごした訓練キャンプの雰囲気に似ていたからだ。
実戦前の、嵐の前の静けさ、という感じがして、多くの者にとっては肉体的に地獄の訓練キャンプと呼ばれるその場所も、彼にとっては、安全で安心な場所だったのだ。
もちろん、シジマにそんなことは言わない。
だから彼は答える。
「嫌いではないな」
その言葉を聞いて、なぜか少女は笑顔になった。
「良かった」
そのままふたりで公園を出て歩き続ける。
「アキオ」
彼の名を呼んで、シジマが身体をぶつけるように腕を組んできた。
時折すれ違う豹人たちは、軽く会釈を交わしつつ、振り返ってふたりを眺めていく。
「やっぱり人間が珍しいのかな」
少女がつぶやく。
「君が綺麗だからだろう」
「え」
シジマが目を丸くして彼を見た。
「いま、なんて?」
「彼らは、君の美しさに振り返ってるんだ」
「わぁ」
シジマはアキオの腕につかまったまま、何度も飛び跳ねる。
その姿を見ながら、アキオは、ルサルカによってナーボラーデに引き合わされ、執政長官が席を外した時に彼女の言った言葉を思い出していた。
「アキオさまの奥さま方は、みな、お美しいですね」
君らの基準で見てもそう思うのか、と尋ねた彼に、
「ええ、もちろん、わたしたちには、耳と尻尾の美しさという人間にはない美の基準がありますが、顔かたちの美しさの判断は人間と同じです。それから見ても、奥さま方は絶世の美人ですね。道を歩けば、ほとんどの豹人が振り返るでしょう」
野性味のある目を輝かせながらそう告げる女性に、彼は少し考えて、答えた。
「ありがとう」
「それでですね。アキオさま」
ナーボラーデは、ぐっと身体を寄せて彼に囁くように続ける。
「奥方さまと比べても、わがルサルカさまは遜色なく美しいと思うのですよ」
臨時執政長官の意図がわからず、彼はただうなずいた。
「機械の身体は、元の肉体の、人間でいうと16歳程度の年齢をもとに作られています。シミュラさまに伺ったところ、あの方は、だいたいその年ごろの身体で再生されるとのことなので――年齢も、美しさも、奥さま方に比肩しうると思うのです。おまけに役職を離れたルサルカさまのもともとの性格は、とても1000年を生きた方とは思えない可愛らしい方です。それはもう、わたしが保証いたします!」
「よくわかった」
耳を震わせながら、彼を見上げて言い募る女性に彼はそう答える。
「さらに、あの方は執政官ですから、わたしたちと違って――」
ナーボラーデは、そこで言葉を切り、
「それは実際に会ってお確かめください」
思わせぶりに笑うのだった。
回り道をしてゆっくりと戻ったタワーの前には、小さな人垣ができていた。
シミュラ、ユイノ、ヴァイユ、カマラたちヌースクアムの少女たちだ。
「あ、アキオ」
ユイノが彼に気づき、手を振る。
「遅いぞ、我が王、待っておったのじゃ」
近づく彼らにシミュラがそう言い、ユスラとヴァイユが道を開けて、ひとりの少女を押し出した。
「アキオさま」
出てきたのは豹人だ。
「ルサルカか」
「はい!」
そう言って少女は微笑み、ピンと張った耳を震わせ、長い尻尾を揺らした。
白い髪、白い耳、白い尾――彼女は、他の者と違い、全身が雪のように白い豹人だったのだ。