511.愛は惜しみなく、
あれから、白鳥号がやって来て、他のヌースクアムの少女たちもスーリバッドに降り立ち、豹人たちと親交を深めていた。
あらかじめ、シジマがアキオに自身の予想を話していたのだが、予想は当たり、少女たちの中で、もっとも豹人たちを気に入ったのはシミュラだった。
ラピィは、雪豹が好みに合ったようで、ラーカムについて、都市とその周辺を歩き回っている。
少女たちの協力で捕まえることのできたフウたちは5体だった。
全員をサフランが引き取り、彼女の下で、もとの豹人に戻すことができるか試してみるらしい。
今のところ、彼らがいかにしてフウとなり、都市外で暮らすようになったのかは分かっていない。
フウを引き取りにきたサフランに、浮遊装置について訊いてみた。
浮遊装置は、ドラッド・グーンがこの世界に堕ちてきた時に、次元を超えて一緒に入り込んだ隕石を核として使っていたらしい。
その隕石は、鉱物と生物の両方の性質を併せ持つ、この世界に在らざるものであったようだ。
「アキオさま」
20代前半の女性の豹人が、優美に長い尻尾を揺らしながら近づいてくる。
肉体再生のためにアミノ酸プールに入ったルサルカが、臨時に執政官を任せた、元執政長官補だ。
名をナーボラーデという。
当然ながら、彼女は機械化されていない。
機械化の技術が失われたこともあるが、そもそも長官以外は機械化されないのだ。
ルサルカが長官を勤めている間に、彼女に仕えた補佐官は50人近くにのぼる。
この後、ルサルカは職を退いて、彼女が、第2357代の執政長官になる予定だが、たとえ、シジマたちの尽力で機械が治ったとしても、もう彼女が銀に輝く豹人になることはないだろう。
「これが、ルサルカさまが子供の頃読まれた物語だと思われます」
身体蘇生を始める前に、アキオは、彼女が耳にした科学者マブゼに関する伝承について尋ねてみた。
執政官は、しばらく黙りこんだ後で、静かに話し出す。
「子供の頃に聞いた話ですから記憶が定かではないのです。ただ誰もが知る話というわけではなかったので、広く知られた言い伝えではなかったのでしょう。あと、もしかするとわたしが子供の頃通っていた書物館の本であった可能性があります」
「書物館って、図書館のこと」
傍にいたシジマが尋ねる。
「大災害でデータ化されていた多くの蔵書が消え去ってしまいましたから、電力が低めながら安定するまで、貴重な紙に印刷をした書物が作られたことがあったのです。わたしが読んでから、もう900年は経ちますので、書物が残っているかどうかわかりませんが――場所はエリア9の地下だったはずです」
そう言って、彼女はナーボナーデにその書物を探すよう依頼したのだった。
そして、いま、臨時執政長官は一冊の書物を手に彼の前に現れたのだ。
「内容は、ルサルカさまがおっしゃられたもので間違いないと思われます。ただ、ひと通り眼を通しましたが子供向けの話ではありませんね。おそらく、これを読んだ大人からお聞きになられたのでしょう」
そういって、さほど厚くない本を彼に手渡した。
「製作年はおそらく大災害後、間もないころでしょう。文字は古代文字で書かれています」
「わかった」
アキオは、ナーボナーデに礼を言って本を受け取った。
「読むの?」
シジマが尋ねる。
アキオはうなずくと、彼女を伴ってタワーを出て、ビルの林立する街を歩き始めた。
ヌースクアムの技術によって気温があがり、陽の光が明るく差し込むようになった通りを行き、目についた公園に入ってベンチに腰を下ろした。
となりにシジマが座る。
広い公園では、親に見守られながら遊ぶ豹人の子供たちが上げる嬌声が心地よい音楽のように響いている。
「先に読んで」
アキオがシジマに本を渡そうとすると、彼女が言った。
うなずいた彼は、ページを繰り始める。
薄い書物だ。
ほどなく全てを読み終わった彼は、黙ってシジマに本を渡す。
美少女は、膝の上で本を開いた。
読み始める。
内容は、ひとりの少女の生い立ちだった。
彼女が、空を飛んで大陸中を旅する巨大都市で、いかに平和に、両親に愛されて育ったかが詩情豊かに一人称で語られる。
もちろん、シジマの持つ科学的な視点からすれば、少女の眼から見る浮遊都市の様子は、いま彼女たちが取り組んでいる当時の古代科学の解明と装置の修復には、直接の役には立たない。
ただ、それは、なんというか――読んでいて心地よい文章だった。
だが、後半以降、特に最終盤になって、ある科学者が登場すると物語の雰囲気は一変する。
シジマは、一度、紙面から眼を離すと本の装丁を見た。
「『愛は惜しみなく』――作者のリジリィ・ナルフという人が主人公なんだろうね。これは回顧録、日記だ」
そう言って、シジマは続きを読み進める。
その、歳の離れた科学者に憧れを持ち、やがて好きになった少女は、様々な方法で彼に接触を試みていく。
ある程度、誇張は入っているのかもしれないが、その失敗を含めた様々な作戦は、等身大の少女の懸命さと愛らしさで、強くシジマの心を打つのだった。
やがて、忙しい彼のために、両親の経営するレストランで作った昼食と夜食を届けることに成功した彼女を、浮遊都市の墜落、スーリバッドで言う大災害が襲う。
建物の倒壊で両親を失って茫然とする彼女に、科学者が手を差し伸べてくれた。
その後、徐々に、おずおずと、お互いの気持ちは近づき、やがてふたりは結ばれる。
そして始まる幸せな日々。
しかし、亡くなった者がいるのに、自分だけがこんなに幸せで良いのか、という自問が少女の中で繰り返され、幸福の反動で彼女は不安になっていく。
こんな幸せが続くわけがない。
彼のような英雄が、わたしのような、何の取り柄もない食堂の娘を愛し続けるはずがない。
いずれは彼は遠くへ去ってしまうに違いない。
少女は、そんな心のうちの不安を文字で綴っていく。
「シジマ」
アキオが少女に呼びかけた。
彼は、公園ではしゃぐ子供たちと、生物しての勢いをとりもどし、力強く繁り始めた公園の樹々が、天井の透明スクリーンを通して差し込む明るい陽光で、精巧なフラクタル図形のような葉の影を美少女の顔に落とす、その様子を眺めていたのだが――
少女の紫がかった青い大きな瞳に涙が浮かび、膨らみ、やがて表面張力にたえられなくなったように、大粒の涙が頬を伝ったため、声をかけたのだ。
しかし、シジマは応えない。
黙って本を読み続けている――
彼女の恐れた通り、少女、リジリィの愛した科学者マブゼは、彼女を置いてスーリバッドを出て行ってしまった。
彼女を救うために。
自分の命より彼女の命を重要視して。
少女は泣いて、泣いて……やがて彼を信じて待つことを決意し、この物語を書き始めたのだった。
物語の最後の一行は、こう結ばれていた。
わたしは、短くとも彼と共にある人生を望み、彼は、彼のいない長い人生をわたしに望んだ。
どちらが正しいか、わたしにはわからない。
ただ言えることは、愛は惜しみなく――
最後の一行の終わりは破れていて判読できなかった。
読みながら、シジマは涙を抑えることができなかった。
この数万年前に生きた、リジリィという少女の気持ちが痛いほど分かるからだ。
彼女はわたしだ。
わたしたちだ。
他のどんなものより大事なもの、命より大切なものが、すぐに指の間から零れ落ちてどこかに行ってしまいそうな不安に、常にさいなまれている。
その焦燥感と不安感は……
不意に、シジマは頭を抱き抱えられた。
アキオが、腕をまわして彼女の頭を抱いたのだ。
突然、泣きだした彼女に、どうしてよいかわからなくなった故の行動だろう。
彼を困らせたことを申し訳なく思いながら、
「アキオ」
本を閉じた少女は、顔を彼の胸に押し当てて再び涙を流すのだった。