508.抱擁
都市墜落の被害は甚大だった。
本来、墜落時の高度を考えたら、全員が死亡していてもおかしくない衝撃がスーリバッドを襲ったのだ。
だが、マブゼが、あらかじめ浮遊装置の心臓部である、浮遊結晶の機能を利用して、墜落時の慣性制御を行う機構、安全装置を用意していたために、想像以上に被害は少なかった。
もっとも、そのために、変換貯蔵されていたマキュラを通常の数百倍の流量で流し込まれた浮遊結晶は、爆破、霧散してしまい、スーリバッドは、二度と空にその美しい雄姿を現すことはなくなってしまったのだが――
かつて宇宙より飛来した、紅く輝く浮遊結晶はこの世界にたった9つ。
その全てが浮遊都市に使われていたが、今回の墜落で8つまでが消失してしまった。
大陸各地でほぼ同時に墜落したらしい他の7つの都市とは、すぐに連絡がついたのだが、最大の第1浮遊都市バルノバとは、どうしても連絡がつかなかった。
9つある浮遊都市の中で、人口500万人を有するバルノバは、その巨大さと、史上最初に造られた浮遊都市、という経緯から、都市評議会の指導者的立場を自らをもって任じていた。
本来、上下の区別なく意見を話し合う場であるべき評議会を、常に支配しようとしていたバルノバは、長い間、最後に造られたスーリバッドを一番下の存在として扱っていたのだった。
そこへ、天才科学者マブゼが現れた。
基本的に、浮遊都市は科学至上主義を旨としている。
科学技術の理解と発展を第一に考え、その優劣を都市同士で競いあっているのだ。
その結果、科学の進んだ都市が、劣った都市を見下すことになった。
必然的に――人口の多いバルノバが先端の科学技術国家となっていたのだが、弱小都市の、ただ一人の天才がその順位をひっくり返してしまった。
それだけが理由でないにせよ、結果的に第1浮遊都市バルノバは、評議会から距離を置くようになり、マブゼが開発し、設置を勧めた安全装置を採用しなかった。
おそらく、連絡の途絶えたバルノバは、どことも知れぬ大地に500万人の屍とともに、その残骸をさらしているのだろう。
安全装置が作動し、貴重過ぎる浮遊結晶を犠牲にしても、スーリバッドの被害は目を覆うばかりだった。
まず、2万5000人暮らしていた住人の半数近くが亡くなった。
いくら緩和されていたとはいえ、危険な場所、状況で墜落の衝撃を受けたら無事では済まない。
だが、人口の半数におよぶ人的被害、それは墜落による最大の不幸ではあったが、同時に、残酷な事実ながら朗報でもあった。
半壊した都市機能が養っていける、ギリギリの数まで人口が減ったからだ。
数万の人口を擁する浮遊都市スーリバッドは、当然ながら、その食料や飲料水を外部からの定期的な輸入に頼っていたが、彼らが墜落したサラムプルナ山頂付近では、外部からの搬入など望むべくもない。
連絡を取り合う限り、他の都市の救助も期待できなかった。
脱出のめどが立つまで、全てを自給自足で賄わなければならないのだ。
それにしても都市機能の被害は莫大だった。
水と空気の浄化装置はかろうじて機能している。
氷点下34度の外気温をドーム内温度22度に上げる気温維持もなんとか可能だ。
痛手だったのは、主演算装置と記憶回路、いわゆるメイン・コンピュータとデータ・バンクが過電流によって大破してしまったことだった。
副演算装置で、最低限の都市機能は保持出来ているが、とても元のように、個人が個別にコンピュータを利用することなどできない。
さらに、都市下部が最初にサラムプルナ山頂に接触した際に破壊され、底部に保存していた、工作艇、連絡艇、金属その他の備品がほぼ全て破壊、散逸してしまったことも痛かった。
結果、スーリバッドの人々は、便利であった時代の記憶は持ちながら、それを実現するための材料も知識も、エネルギーすら失って、高山に孤立してしまったのだった。
「それで、どうするつもりだ。執政官どの」
薄暗い部屋でラモルが尋ねる。
電力不足で、高速昇降機が使えないため、一階に移動された執政官室の中だ。
「打つ手はない」
マブゼが答えた。
彼はいま、第9浮遊都市スーリバッドの臨時執政官となっている。
前任者である、美しいルイン・ジ・ロロロ・ウエイニフは、墜落時、全権を委譲したのちマブゼの腕の中で死んだ。
後を継ぐべき彼女の子供はまだ幼い。
「今、かつての公園を農作地として食料を作ってもらっているが、慣れない畑仕事でなかなかうまくはいかないようだ」
「全市民脱出は?」
「不可能だ。堕ちた場所が悪い。それでも第3都市よりはましだが」
第3浮遊都市アランティアは、海中、しかも深海に沈んでいるのだ。
「脱出艇を造ろうにも、材料はもちろん、エネルギーすらない。余計なことにエネルギーを使えば、すぐに凍死者と餓死者がでるだろう」
「誰かが脱出艇でここを出て――」
ラモルがマブゼを見つめる。
「外部で輸送機を造って迎えに戻る」
「それは良い考えだ。脱出艇を造る材料も、それにつぎこむエネルギーも不足しているという点を除けば、だが。歩いて山を下ればそれも可能だが――試してみるか?」
ラモルが両手を上げた。
「お手上げか」
「ひとつだけ方法はあるが――」
「教えろ」
「もう少し待ってくれ、考えをまとめたい」
「わかった。じゃ、明日だな」
「ああ、明日、俺の考えを教える」
ラモルと分かれたマブゼは、歩いて家に帰った。
扉を開ける。
「あなた!」
小さな、良い匂いのする生き物が走り寄って抱きついてくる。
「おかえりなさい」
「ただいま、リジリィ」
墜落の衝撃で家族を失った彼女を、マブゼは引き取っていた。
やがて、一緒に暮らすうちに、彼は彼女を愛するようになった。
そして知った。
彼が望んでいたのは、相手の肉体の大きさではなく、その存在の大きさであったことに。
小柄な少女は、大きな彼の腕には小さすぎ、抱きしめる度、常に壊してしまうのではないかという不安が頭をよぎるが、実際にはそんなことにはならなかった。
彼女は彼が思うより、強く、たくましく、繊細な生き物だった。
今も、彼女の胸に縋って甘い吐息を吐く少女は、彼の中では、責任をもって預かる都市と同じくらい、いやそれ以上に大きな存在となっている。
「今日はどんな日だった?」
彼の言葉で、リジリィは、この日あったことをひとつずつ話し始める。
それをまるで音楽のように聞きながら彼は相槌を打つのだった。
幸福感に包まれながら。
世紀の発明?
科学の発展?
それらを生み出した時の高揚感など、なんということはない。
今となっては、そんなものなど如何ほどのものでもないのだ。
彼の守るべき世界は、この腕の中にある。
彼女と、彼女が生きていくべき世界を守るためにこそ、彼の知恵と行動力と意思の強さは使われるべきなのだ。
ソファに座り、彼女を膝の上に乗せて、その頭を撫で、美しく立った耳に触れながら、彼は豹人をやめる決意を固めるのだった。