507.厄災
「おい、こんなところで仕事ばかりしてないで、たまには外に出て陽の光を浴びろよ」
久しぶりに顔を見せたラモルが、そう言って彼の肩を叩いた。
「少なくとも日に一度は外に出てるさ」
「だが、運動はしてないだろう」
「やることがあるからな」
「そんなことだから、その歳になるまで独り身のままなんだよ」
「ほっといてくれ」
彼がラモルの手を払いのける。
「ごめんください」
二人の言い合いに割り込むように、遠慮がちに可愛らしい声が響いた。
彼らが顔を向けると、部屋の戸口に馴染みのレストランの娘が籠を手に立っている。
「あ、リジリィさん」
「いつものお弁当をお持ちしました」
「ああ、ありがとう。そこの机に置いてください」
「はい」
だが、少女は籠を置いた後も、立ち去ろうとはしなかった。
モジモジしながら彼を盗み見る。
「何か御用でしょうか」
彼が尋ねると、思い切ったように口を開く。
「あ、あの、明日の夜は恋月祭ですね」
「そうですね」
「も、もしよろしければ、わたしと一緒に、お出かけしませんか」
小柄な体を震わせ、顔を赤くしながら言う。
「ああ、残念だけど、明日は他に用事があるんだ。他の人と楽しんでくればいい」
あっさりと彼が断りの言葉を口にすると、傍から見ても分かるくらいに、少女はしょんぼりする。
「わかりました」
腕に通した籠の持ち手が千切れそうな勢いで体を回転させて、そう言い残すと、リジリィは部屋を走るように出ていくのだった。
「おい、お前、予定なんかないだろう」
少女の姿が消えると、ラモルが彼の肩を強く衝いた。
「痛いじゃないか、予定はあるよ。仕事だ」
「せっかく、あんな可愛い娘が精いっぱい勇気を振り絞って誘ってくれたのに――」
「そりゃそうだが――彼女は好みじゃないんだよ。とりあえず、断るのが可哀そうだから相手をする。そんな気持ちで形だけつきあうのは失礼だろう」
「好みってなぁ。お前、彼女とほとんど話もしてないだろ。一緒に出かけて会話が弾めば、また違った魅力に気づくことも」
「好みっていうのは、見かけのことだぞ」
「わからんなぁ。あんなに可憐で可愛くて、お前よりずっと若い子のどこが好みじゃないんだ」
呆れたようにラモルが言う。
「俺はね、大きい女が好きなんだよ。彼女は小さい、その時点で付き合うことはないね」
「大きいって、どこが」
「どこがじゃなくて、全体がだよ。俺より背が高くて、抱き着いたら腕が回らないくらい大きな女がいいんだ」
驚いたラモルが彼を見る。
彼は男としては標準よりかなり大きい。
そんな彼より大きな女性なんているのだろうか。
「どういう趣味だ、それは?なんで大きい子がいいんだよ」
「そりゃ、おまえ――」
彼が言いよどむ。
「なんか、大きいと得をしたみたいだろう」
「そんな……肉の量り売りじゃないんだから」
「とにかく、彼女は俺の対応範囲外だ」
「あんなに可愛い子なのに。もったいな――」
ラモルの言葉が止まる。
あり得ないことに、建物がガタガタと震え始めたからだ。
「おい」
彼がラモルを見た。
「外だ」
二人同時に叫ぶ。
彼らはそろって部屋を走り出た。
ビルの外では、揺れ動く大地に驚いて通りに出た人々が、恐怖の表情で空を見上げていた。
皆、不安に尻尾が揺れ、耳が折れている。
「リジリィさん」
彼が、戸口に座り込んでいる少女に声をかけた。
「い、いったい何が」
震える声で少女が尋ねる。
彼は膝をついて、彼女の細い肩に手を置いた。
「心配しないで、店に帰って家族と一緒にいてください」
「は、はい。あなたは」
彼女の言葉に合わせるように、
「緊急事態、緊急事態、緊急時対策委員は直ちに中央タワーまでおいでください。ドクター・マブゼは執政長官室へ」
人々の頭上を飛ぶ小型浮遊器から、彼の名が告げられる。
「お呼びがかかったようだ。さあ、店にお帰り。あなたとあなたの家族には怪我してほしくない」
「わかりました。マブゼ博士」
「中央タワー」
ラモルと共に通りかかった移動装置に飛び乗った彼は、行き先を叫んだ。
「分かりました」
マイロが応えて走り出す。
誰もいない車内でラモルが彼を見た。
「おまえ、本当はあの娘のこと」
「どうにも頼りなくて心配なだけだ。まだ子供だしな――それに、俺のような科学バカにはもったいないだろう」
「天才がバカとはな。だが、おそらく、彼女はそんなお前も含めて……」
「その話はやめてくれ。いまは緊急事態だ」
「そうだな。だが、あとできっちり聞かせてもらうからな」
そう言ったきり、ラモルは、窓外を流れ去る騒然とした様子の街に眼をやった。
「正しく緊急事態だな」
いかなる状態でも安全、安定して走行するように彼自身が設計した乗り物が不気味に震動するのを感じて、マブゼがつぶやいた。
「何だと思う。やはり、最近、計測されているマキュラの濃度不足か」
科学局員の証である、左目に埋め込まれた検査装置を光らせてラモルが言う。
「可能性はあるが、これほど急に不安定になることはあり得ない。考えられるのは……」
そう言ったきり、マブゼは黙り込むのだった。
「どうやら、サンクが実力行使に出たようだ。都市付近のマキュラ濃度が低下しているらしい」
中央タワー最上階で執政官が彼に言う。
「やはりそうでしたか」
マブゼが唸るように応えた。
「彼らは、よほど我々の科学が気に入らないようだな」
もう随分前から、浮遊都市評議会は、サンクと呼ばれる集団から科学技術の放棄、あるいは抑制を要求されていた。
それが最近は、サンクの態度が強硬になり、時たま、地上に降りた者たちと小競り合いすら起こるようになっていたのだった。
厄介だったのは、彼らサンクが豹人とは違う技術を持っていることだった。
サンクは機械を使わない。
「ですが、サンクたちもスーリバッドに直接攻撃は仕掛けてはこないでしょう。色々いってきますが、基本的に彼らは理知的ですから。今回のこれも警告の一種だと思われます」
マブゼの言葉に長官はうなずく。
「では、君は、科学局へ行って、この震動に対する対策を――」
だが、執政官は、その言葉を最後まで言えなかった。
いきなり部屋が傾き、ふたりは壁に激突したからだ。
タワーの外でも、都市のあらゆるものが傾いた先の壁や建物に激突していく。
こうして、この日、不落と呼ばれた浮遊都市スーリバッドは、標高9210メートルのサラムプルナ山の山頂近くに墜落したのだった。