506.滑降
いかなる理由からか、都市を出て幾星霜。
言葉はまだ多少話せるようだが、あの様子では、ほぼ本能に従って日々暮らしているに違いない。
そして、時折、都市の事が気になって、あるいは都市に戻りたくなって、スーリバッドにやってくるのだろうか。
「フウたちが伝説の科学者――」
「今はまだ、その可能性がある、というだけだ」
アキオが言う。
何らかの遺伝子操作で生み出された、作業用か戦闘用の生物が都市を出て繁殖している可能性もある。
「シジマの調査が終わったら、何体か捕まえて調べてみよう」
体細胞や遺伝子を調べれば、彼らの生み出された過程も分かるだろう。
先走って考える必要もないだろうが、もし、フウが科学者たちの成れの果てであるならば、元に戻せるか試してみてもよい。
かつては浮遊都市と科学文明を憎んだジュノスも、いまはサフランとなって当たりが柔らかくなっている。
場合によっては、協力してくれるかもしれない。
「調査には、まだしばらくかかるでしょうね」
「いや、シジマなら――」
「呼んだ?」
背後からの声にアキオが振り返る。
すぐ目の間で、暗緑色の髪の少女が笑っていた。
「闘ったんだって?」
「そうだ」
「ボクも一緒に闘いたかったな」
「それについては、あとで話がある――浮遊装置はどうだ」
「うん」
少女の笑顔が僅かに曇る。
「もう少し調べないといけないけど、浮遊装置の構造はだいたいわかったよ」
アキオは感心する。
普通は、目にしたばかりの装置を、しかも今までとは違う土壌に立つ技術を理解するのは容易ではない。
「動かせるか」
少女は小さな緑の頭を振った。
「駄目なんだ」
「壊れているのか」
「というより、心臓部が消えてるんだよね」
「消える」
「うん、きれいさっぱりと。周りの装置の形状から、拳大の、何かの塊であるのはわかるんだけど」
「生体パーツか」
バルバロスは生身のアイリンの頭部を浮遊装置として使っていた。
「違うよ。たぶん鉱石だと思う」
アキオはうなずいた。
豹人たちの科学は、生体科学ではなく機械科学だ。
おそらく浮遊装置の心臓部は墜落の衝撃で破壊されたか、長きにわたる歳月のために消滅するかしたのだろう。
アキオは話題を変える。
「都市に動力が戻っているな」
「うん。一応使えるようにしたんだ。おかしいと思ってたんだよね。このサラムプルナ山にも少ないながらPS、ここの人たちのいうところのマキュラはあるんだ。なのに都市には、ほとんど電気がない。墜落の衝撃か、古くなって発電機が故障したんだと思って調べてみたら、そうじゃなかった」
「続けてくれ」
「エネルギー配分がおかしかったんだよ。この都市の発電機は、その大部分を浮遊装置に優先的に送り込むようになっていた。でも、今は装置が機能していないから、PSから作られるエネルギーのほとんどが無駄に捨てられていたんだ。だから、一時的に浮遊装置にエネルギーが行かないようにして、送配電網を再編したんだよ」
「そうか」
「一応、こっちへ来る時に、一時的に出力を絞って、それほど過剰な電力が都市に送られないようにはしてきた」
「理由は」
「経年劣化で弱っている様々な装置にいきなり大電流を流し込んだら危険でしょう。それに、せっかくエネルギーが枯渇したおかげで、科学主義だったスーリバッドの人々が他の世界とほぼ同じ、産業革命以前の生活をするようになっているんだから、今は、これを維持して、アルメデさまやハルカに相談しながら、様子を見つつ、生活レベルを上げたら良いと思ったんだよ」
アキオはルサルカを見た。
銀色の少女はうなずく。
「それでよいと思います。今、過剰な電力が供給されても、おそらく安全に動く機械自体が少ないでしょうから」
「あ、それとね」
シジマが小さな手を打つ。
「あとひとつ朗報があるんだ」
「いってくれ」
「電波障害が復旧して、ヌースクアムと連絡がついたんだ。白鳥号を出してくれるって――だから、人口雪嵐を緩めて外からの乗り物が入りやすいようにしたの。もうすぐ、いろんな装置を持ってきてくれるはずだよ」
そう言って、シジマは銀色の少女の手を握った。
「ルサルカさんの身体の再生も始めることができる」
「そうなんですか」
少女がアキオを見る。
「そうだ」
遺伝子情報に大きな違いがなければ、一週間ほどで完全な生身の肉体が再生されるだろう。
「それでね、アキオ。たぶん白鳥号には、みんなが乗ってくると思うんだよ」
「そうだろうな」
失われた文明の発見だ。
ヌースクアムの少女たちが見逃すはずがない。
「だから、それまでに、ボクはアキオとふたりだけで、やってみたいことがあるんだ」
アキオはうなずく。
どのみち、スーリバッドの様々な装置を調べる上でも、白鳥号に搭載された検査装置を使わなければならない。
「じゃあ、付き合ってね」
美少女は、晴れやかな笑顔を見せる。
耳のそばを、冷えた風が流れ去って行く。
眼にする一面の雪景色が、素晴らしい速さで流れ去り、太陽の光が雪面に反射して眩しく輝いている。
歓声を上げながら、小刻みなストック・ワークでウエーデルンを行っていたシジマが、急制動をかけて止まった。
アキオも彼女のすぐ横で停止する。
「気持ちいいねぇ」
ストックを雪に挿し、サングラスを額に上げたシジマが叫ぶように言った。
小柄な少女が身にまとっているのは、ツナギタイプのスキー・ウェアに形を変えたナノ・コートだ。
一面の白銀に美しい緑色のスーツはよく映える。
「うまく制御できているな」
「うん。あらかじめジーナ城で学習していたからね。せっかく大陸最高峰のサラムプルナに来るんだから、アキオと雪山を滑ってみたかったんだ」
雪面を滑りたいと言われて、てっきり彼はスノーボードを使うのだと思っていたのだが、シジマが取り出したのはスキー板だった。
予備のナノ・クロスを硬化、変形させてスキー板とし、ナノブーツと接合できるように加工してある。
ストックは、パラトネを流用したようだ。
「スノーボードと迷ったんだけどね。アキオはどちらも得意でしょう」
彼はうなずく。
趣味で滑ったことは一度もないが、任務で幾度となく、命がけで雪面は滑ったことがある。
「あの、山頂の基地から、生物兵器のワクチンを奪取して麓まで直滑降した話――」
アキオの眉がわずかに動く。
ピレネーのペドラフォルカ要塞潜入作戦だ。
確かに、あの時使ったのはボードではなくスキーだった。
「あの話をミーナから聞いて、絶対にアキオと一緒に山を下ろうと思ってたんだ」
アキオは緩やかに首を振る。
あれは、決して人に聞かせたり自慢できるような任務ではなかった。
多くの犠牲を出して、かろうじて成功した作戦に過ぎない。
6人の熟練工作員を送り込んで、生きて帰ったのは、いつものように彼だけだったのだから。
「ヤッホー」
そんなアキオの考えに頓着なく、シジマが山に叫んでいる。
「サンクトレイカでは、板に乗って山を滑るなんてことはしないからね。でも、普及させてもいいかもしれないね。こんなに楽しいんだから。スピードも楽しめるし」
「噴射杖に比べたら止まっているようなものだろう」
「空を飛ぶのと地上を滑るのは違うよ。それにエッジを利かせた時の震動なんかが癖になるよね。体重移動と踏み込みによるコントロールも楽しいし――」
もともと運動能力の高いシジマがナノ強化されて反射速度も上がっているのだから、操作は容易だろう。
「アキオ!」
シジマが背中まである髪をひと振りさせ、彼の名を呼んで腕にしがみついた。
頭には、かつてキラル症候群対策のために着けさせていたアリス・バンドが輝いている。
なぜか彼女はこれを気に入って、今も使い続けているのだ。
「どうした」
「ありがとう、一緒に来てくれて、一緒にいてくれて!」
明るい陽射しを浴び、輝く緑の髪を風になびかせて、とびきりの笑顔で笑う少女にアキオは――
かつてない胸の動悸を感じて、不思議な気分になる。
おそらく、久しぶりの雪面滑降で、意識が興奮しているのだろう。