497.雪豹
「こっちで方向はあってるの」
自分の前に立ってブリザードの風を防ぎ、力強く新雪を踏み固めしながら進むアキオに声をかける。
「方位磁石によると正しいはずだ。このあたりの岩石が磁気をおびていなければ、だが」
前を向いたまま彼が答える。
まだ午前中だが、ホワイトアウトに近い状態の降雪のために薄暗くなった登り坂を、ナノ・マシンが通常の20パーセントしか稼働していない状態ながら、疲れを知らない機械のように黙々とアキオが進んでいく。
「降下地点からだと、目的地へ800メートルほどの距離だったはずだから、それほど遠くないと思うよ。でも風に流されたからね。もう少しあるかも」
アキオは、前を向いたまま声を出さずうなずいた。
そのまま30分ほど歩く。
力強く雪をかき分け、大きな歩幅で進んでいくアキオの慣れた様子を見ながら、シジマが尋ねる。
「アキオは、雪の行軍って慣れてるの?」
「何度か経験はしている」
「どうせ歴史的な戦いなんだよね」
その軽口には答えず、アキオが言う。
「雪が収まってきたな」
彼の言葉で、アキオの背後に隠れるようにして、雪面を見ながら歩いていたシジマが顔を上げた。
先ほどまで、視界を奪うように吹雪いていた雪が冗談のように消え去っている。
「これはどういうこと」
振り向いたシジマの目に、まるで一枚の壁のような降雪が映る。
ほんの十メートルほど向こうまでは、激しく吹雪いているのに、いま彼女たちがいる場所は晴れているのだ。
見回すと、台風の目のように、大きく円形に降雪の壁が取り囲んでいた。
「雪の防御壁だ」
「アキオ!」
彼の言葉にシジマが反応する。
つまり、侵入者を拒む何者かが、今、彼らと同じ側にいるということだ。
しかも、人を寄せ付けないために、部分的にブリザードを発生させる仕掛けを持つ者が。
「どうやら浮遊都市の機能は、一部にせよ生きているらしい」
「ということは――」
言葉の途中で、二人は同時に飛び退る。
そのあとには、巨大な生き物が3体降り立っていた。
体長は3メートル余り、白い体毛で覆われたポジ、地球で言うネコ科の生き物で全身に灰色の斑点がある。
体重は200キロを越えているだろう。
この世界で見たことの無い獣――おそらくは魔獣だった。
「いけるか」
アキオの言葉に少女が応える。
「剣は失くしたけど、このナノ・ナイフがあるからね」
少女の手に魔法のようにナイフが現われた。
アキオがうなずいた。
ナノ強化されたシジマは、もともと卓越した剣士だったこともあって、アラント大陸屈指の剣の遣い手となっている。
「魔法には気をつけろ」
「了解!」
美少女の良い返事を聞きながら、アキオはコートにいれた手で握っていたP336から手を離した。
銃声は雪崩を誘発してしまうだろう。
彼は、コートから腕を抜くと、素手で魔獣と対峙した。
地球の雪豹に似た魔獣は、しばらくタイミングを計っていたが、低く唸るとアキオに飛び掛かってきた。
地球のネコ科の動物同様、太い前足が唸りをあげ、鋭く伸びた爪が彼を襲う。
普通の生物がそのまま受ければ、ズタスタに引き裂かれてしまっただろう。
もちろん、アキオは普通の生き物ではない。
軽く拳を握ると、軽くバックステップして爪を躱し、流れるような動きで魔獣の狭い額に向けてパンチを放った。
巨大なハンマーで岩を叩いたような音が轟いて相手が吹っ飛び、雪面を転がる。
だが魔獣は死んでいなかった。
アキオが眉を少し上げ、敵の頑丈さに感心する。
もちろん、様子見程度の気持ちで腰をいれず放ったストレートだ。
さらに、ナノ強化のレベルも低く、雪上の打撃のため、踏ん張りがきかなったことを差し引いても彼のパンチを受けて生きているのはさすがだった。
だが、立ち上がろうとした魔獣はよろめいて再び倒れた。
今の打撃で脳は揺れているようだ。
アキオは、目の端で緑の髪の小柄な少女が、踊るように華麗なステップで魔獣の攻撃を掻い潜りながら、前足の腱を斬り裂くのを見た。
返す刃で首を切り裂く。
アキオは、最後の一体の魔獣が飛び掛かってくるのを横っ飛びに裂けながら、前脚を掴み、敵の体重を利用しつつ無理なく運動のベクトルを変えさせて雪面に叩きつけた。
カイネの戦い方を参考にしたものだが、岩盤ではなく雪面なので、それほどダメージは受けていないようだ。
だからアキオは、魔獣が地面に落ちると同時に、体重をかけて上からわき腹に拳を放った。
今度のは効いた。
泣き声こそ上げなかったが、魔獣は、激しく血を吐く。
折れた肋骨が、肺とおそらくは心臓に突き刺さっているだろう。
アキオは立ち上がり、倒れたままの魔獣を見る。
闘いが終わった雪原に静寂が広がっていた。
ただ、倒れた3体の魔獣が、口から白い息と共に血を吐く呼吸音が小さく響くだけだ。
と――
「殺さないで」
雪上に女の声が響いた。
言葉の意味を理解しながらも、違和感を感じたアキオに、シジマの呟きが聞こえる。
「古代エストラ語……」
同時に、若い女、少女といってもいい娘が、雪だまりから、彼らと魔獣の間に走り出てきた。
「お願い!この子たちを殺さないで」
再び叫ぶ。
「え」
シジマの目が大きく見開かれた。
それは美しい少女だった。
粗末な服に身を包んで、大きな目いっぱいに涙をたたえて懇願している美少女だ。
彼女は震えながら両ひざをつき、手をそろえて頭を下げた。
何度も、何度も……
その真摯な気持ちは確かにふたりに伝わって来る。
茶色の髪、整った顔――
だが、その頭には、ポジそっくりのピンと立った耳があり、彼女の背後には、長く優美な尻尾が伸びていたのだった。