492.帰還
「アキオ」
来た時同様、首につかまりながら、共に空を飛ぶアルメデが愛しい名を呼ぶ。
「家屋が倒壊し、怪我をした者もいるこの状況でこんなことをいうべきではないのかもしれませんが――」
少女は、大きな目で彼の顔を見つめ、不意に口調を変えて、叫ぶように言う。
「わたし、すごく楽しい。ずっと乗りたかった二輪の後ろに乗って、いま、アキオに抱かれながら空を飛んでるんだもの」
彼は無言で少女に眼を向け、彼女の形の良い頭を柔らかに覆う金色の短髪を優しく撫でた。
我慢できなくなったのか、アルメデが首にかけた腕を引き寄せ、彼に口づけをする。
バランスを崩した噴射杖は大きく向きを変えると、地上に向けてキリモミ降下した。
しかし、少女は彼を離そうとはしない。
怪物のように立ちはだかるタルト山、近づく都市の灯、空に浮かぶ3つの月、近づく黒い海、目まぐるしく変わる視界を完全に無視して、ただ彼の唇の感触を味わおうと目を閉じる。
アキオは、アルメデの頭から手を離すと、彼女の背に回し、片手で抱きしめた。
鮮やかな体重移動と杖のスロットル操作で体勢を立て直し、海面ぎりぎりで、水平飛行に移る。
波の飛沫が頬にかかる。
「あまり嬉しいので、このまま死んでもいいと思いました」
そうか、とアキオは言わなかった。
少し乱暴にアルメデの頭に手を触れる。
「死ぬことを考えるな」
どうせ死ぬときは死ぬ、という言葉を飲みこんで彼が言う。
「はい」
伸びあがるように、杖は上昇を続け、都市に入った。
イフ城へ向かう際に、都市機能を完全に掌握したアカラに命じて、防備体制は解除してある。
そのまま上昇し、管理塔最上部、彼らが破壊し、飛び出した窓に向かう。
コートからP336を取り出すと、緊急シャッターの降りた部分の横に向かって、通常弾を撃った。
割れた展望窓から中に飛び込む。
杖から身を離すと縮小ボタンを押して短くし、回転しながら、アルメデを抱いて床に降り立った。
非常シャッターが派手な音を立てて降りる。
指令室に残っていたルイスとペルタ辺境伯が驚いた表情で二人を見た。
「状況を」
毅然としたアルメデの言葉に、はっとしたペルタが口を開く。
「現在、報告を受けている被害は、家屋に関するもの、ニューハード0、オールドハード251、うち全壊121半壊60、残りは軽微です。人的被害は死者0、軽傷者多数ですが重傷者も0。突如現れた一組の男女が、重機並みの力で瓦礫を撤去し、酵素な治療を行ったという報告が上がっています」
ほんの少しからかうような表情になってペルタが言い、
「現在は、災害処理ロボットが現場で作業中です」
「ふたりのドミニスたちは?」
「コラド、ガラム両名は、塔の来賓室へ軟禁して警備兵をつかせています」
アルメデはうなずいた。
巨大スクリーンに向かって言葉を発する。
「アカラ、噴火の状態は」
塔内のコンピュータを支配するAIが答える。
「火山脈内圧力は正常値、再噴火の危険性はありません」
「わかりました。辺境伯、ルイスも、よくやりましたね」
「はぁ」
塔内に残っていたふたりが、困ったような声で応える。
声だけで判断すると、元女王が凛々しく事後処理の様子を確認しているように聞こえるが、実際のところ、彼女は室内に入って以来、ずっとアキオに横抱きにされたままなのだった。
抱かれることで、細く、硬さは残るものの、少女から大人の女性になりかけている豊かな身体のラインがくっきりと浮かび上がり、さらに彼女が彼の首に手を回して抱きついているために、美しい胸が押し付けられて、形を変える様が目に入ってしまう。
報告の最中とあって、目を逸らすわけにも行かない男二人は、居心地悪いことこの上なかったのだった。
それに気づいたわけではないだろうが、アキオが少女をそっと床に下した。
「被災者の収容場所は」
アルメデがたずねた。
「非常用手順にしたがって、戦時用シェルターに収容しました」
「わかりました」
アルメデは、塔内に戻って初めて笑顔を見せた。
「あとは任せてよいですね」
言いながら、彼女はアキオの腕をとる。
「それでは、わたしたちは帰ります」
「ヌースクアム国へですか」
驚いて尋ねるペルタにアルメデは緩く首を振り、
「いいえ、あなたのお屋敷にです。お邪魔で無ければ、ですが」
「もちろんです。では、ジルベスタに迎えに来させましょう。先ほど無事屋敷に戻ったと連絡がありましたので」
「それには及びません、ここからはそれほど遠くないでしょう。わたしたちは歩いて帰ることにします」
「しかしお二人だけでは危険――」
言いかけたペルタの言葉が途切れる。
彼の肩に手を置いたルイスが、笑いながら言うのだった。
「お二人に危険が迫るような事態なら、この世界では生き残る場所などありませんよ」
「では、行きましょうアキオ」
彼の手を引いてアルメデが扉に向かう。
「アカラ」
広い通路に出ると、彼女が名を呼んだ。
「はい。直通エレベータの用意はできています」
「ありがとう」
乳白色に輝く通路を歩きながら、アルメデがアキオと手をつないだまま、反対の手でリストバンドに指を触れる。
かっちりとしたコートが、魔法がとけたかのように柔軟性を持ち、デザインを変え、海辺で着ていたものとは違うフレアタイプの裾が、形の良い彼女の脚が閃くたびに、美しく揺れた。
残念なのは、そういったものに、アキオがまったくといってよいほど興味を示さないことだ。
来たときはロックされていた、開いたままの直通エレベータに乗り込む。
一分足らずで、一階のエントランスに到着したふたりは、受付のアンドロイドの言葉に送られて扉をぬけ、行きはハヤブサで駆け上がった広い階段を降りていく。
停止したままのガーディアン・ロボットを横目で見ながら、ゲートを通った。
「ふたりきりのお散歩ですね」
アキオと組んだ腕をしっかりと締め付けながら、アルメデはそう言うと、夜の街に足を踏み出すのだった。