489.愛憎
アキオが離れるのと入れ変わるように、膝をついたキルスにカイネが走り寄った。
そのまま抱きつくか、少なくとも身体には触れるものだと思ってアルメデが見ていると、少女は、彼の寸前で立ち止まって、ただ声をかけただけだった。
キルスはそれに答え、静かに立ち上がる。
ほんの少し、バランスを崩す。
カイネの手は、彼を支えるように動くが、やはり身体に触れるのを思いとどまって空中をさまようのだった。
アルメデがテラスに降りた時、確かにカイネはキルスの腕の中にいたはずだが、非常事態の去った今になると、軽々しく身体に触れることができないらしい。
「どうした」
ふふ、と笑うアルメデへ、避雷器を手にして戻ってきたアキオが声をかける。
「いえ――」
美少女は、ボーイッシュな印象を与える短い金の髪を揺らしながら言う。
「カイネは、いま、綺麗な恋をしているんだなぁ、と思って」
「そうか」
アキオの答えはいつも通りだ。
アルメデは、手を後ろに回して、アキオの顔を下から覗き込むように見上げる。
「わたしもそうですよ、アキオ。100年の間ずっとね――」
もう一度、そうか、と言いかけたアキオは、少女の形の良い頭に手を伸ばし、髪に触れながら言った。
「ありがとう」
さっと、少女の頬に朱がさす。
顔を背けると、背を向けたまま彼に尋ねる。
「それで――キルスはどうでした」
「見たままだな」
「つまり?」
「この大陸で、一対一の戦いで勝てるものはいないだろう」
少女は、さっと振り返った。
「それほどですか」
「そうだ」
アルメデは、唇に指をあてて少し考えると、
「アキオ、剣を」
要請に応じて、彼が避雷器を手渡す。
アルメデは、キルスに歩み寄った。
手を出して、ケーンを受け取りながら告げる。
「ヌースクアム王からお墨付きをいただきました。キルス、あなたに訓練は必要ないようです」
言ってから、呆れたようにキルスを見つめる。
「でも、いったい、いつのまにそんなに強くなったのですか?」
「あなたが高い城で訓練をされているのを見た頃からですね」
「教えてくれてもよかったのに」
「もうしわけありません、女王さま、しかし、わたしは生来、秘密主義が身上な人間ですから」
「困った人ですね」
溜息をつくと、彼女は顔をカイネに向けた。
少女は、キルスに向けていたものとは、まるで違う落ち着いた表情で彼女を見ている。
アルメデの、カイネに対する感情は、少々複雑だ。
カイネ・マリア――今、彼女を見つめる怜悧な美貌の少女は、彼女の命の恩人そして姉ともいうべきエヴァの生まれ変わり――彼女そのものといってよい存在なのだ。
だから、アルメデの、少女が見せる初々しく恋する表情を、微笑ましく思う気持ちは強い。
だが、その生い立ちの複雑さもあって、カイネは、本来の彼女であるはずのエヴァとはかなり違った性格に育ってしまった。
さらに、のちに運命のいたずらもあってアキオを仇と考えるようになった彼女は、ついには彼を抹殺しようとして、アラント大陸を巻き込んで、シヅネ・ヘルマンの肉体とミーナを消滅させたのだ。
つまり、正しく彼女にとってカイネは、愛憎半ばする存在だった。
愛するエヴァの分身、100年を共に生き、トルメア発展の記憶を分かち合う戦友、そして無二の親友であったミーナの殺害者。
だけどカイネは彼女からアキオを奪わなかった、奪えなかった。
だからアルメデは、少女を憎んではいない。
アキオは――
彼自身は、もともと憎しみの感情の薄い人だ。
カイネに恨みを持っていないことは、先ほどの彼の態度からも、よくわかる。
でも……
彼女は、逆にそれが悲しかった。
アキオは、起こってしまった悲劇から、憎しみの対象を求めるのではなく、事実を事実として受け止め、無くしたものを取り戻すために、無限の努力をし続ける決意を新たにする人だからだ。
もし、彼が復讐をするというなら、喜んで彼女はそれに手を貸し、本懐を遂げさせたことだろう。
そののち、復讐では埋められない心の空白を、強く抱きしめ、共に泣くことで、気持ちをひとつにできたかもしれない。
だけど、アキオは――
彼女の想い人は、そのすべてを拒絶して、自分の努力だけで、あらゆるものを取り戻そうとする。
共に怒り、泣くことすら許してくれないのだ。
もっとも、そうしたアルメデの心を、複雑な感情の錯綜が駆け抜けたのは一瞬だった。
外部から見れば、ほんの少し、美しい眼を顰めだけだ。
「あなたの相手はわたしがしましょう」
落ち着いた口調でカイネに告げる。
「しかし、アルメデさま――」
キルスの言葉を遮って彼女が続けた。
「あなたは、少なくともキルスの邪魔にならない動きができることを示しなさい。それとも前言を撤回しますか?」
「お相手を願います」
少女が毅然と言い放つ。
「わかりました。武器は何にしますか?」
「剣でも銃でもかまいません。素手でも結構です」
少女の言葉にアキオの眉が少し動いた。
それは、傭兵時代からよく彼が口にする言葉だったからだ。
「大した自信ですね。あなたも密かに訓練を積んでいたのですか」
「お確かめください」
アルメデは、ふと口元を緩めた。
「自信があるのですね。なぜ黙っていました?」
「ご存じのように、わたしは自分のことを話すのは苦手なのです」
表情を変えずに言うカイネに、彼女は呆れたように溜息をつく。
「そういうところは、エヴァに――いえ、キルスに似ていますね。分かりました」
アルメデは、パラトネとケーンをアキオに向かって投げ渡しながら言う。
「素手で闘いましょう。勝利の条件は、先ほどと同じです」
「承りました」
カイネは丁寧に頭を下げると、数歩、後に下がった。
重心を低くし、左腕を前に独特の構えをとる。