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484.隠棲

 日が昇る前に彼は目覚めた。

 昨夜は書斎で夜更よふかしをしたが、その程度で寝過ごしたりはしない。


 シーツから滑り出て、寝台(ベッド)から冷たい床に足を降ろす。

 あかりをつけ、ひんやり冷えた部屋で着替えをし、それほど大きくない自室の隅に作られた洗面所で顔を洗って、窓から海を眺めた。

 わずかに波と風の音が聞こえる以外は、静寂せいじゃくそのものだ。


 まだ外は暗いので、ガラスには黒い髪、灰色の瞳の自分の姿が映っているが、窓外が徐々(じょじょ)に明るくなるにつれ、それも薄くなっていった。


 ふと彼は、ガラスに映る自分の背後の、部屋に作りつけの小さな机に視線を移した。

 その上には、大量の紙の束が置かれている。

 戦後史をまとめるために集めた手書きのメモだ。

 昨夜もそれで寝るのが遅くなったのだ。


 再び海に視線を転じる。

 その後、彼は飽きもせず揺蕩(たゆと)う波を見つめ続けるのだった。



 ひかえ目なノックが部屋に響く。


 上は白いシャツ、下は黒のスラックスというラフな()()()()の彼は、長身を戸口まで歩ぶとドアを開けた。


 ほの暗い廊下を背に人が立っている。


 質素な服に細い身体を包んだ、金色の髪、青い瞳の少女だ。


「おはようございます」

 彼女の挨拶に彼も応える。

「おはよう」

「お食事の用意ができています」

 うなずいた彼は、部屋を出ると、先に行く少女の後を歩き出した。


 短い廊下を歩く間も、窓から差し込む陽の光は力をまして、絹糸きんしのような少女の髪を輝かせ始める。


 廊下の端まで歩くと、彼女は扉を開け、部屋に入った。

 彼も後に続く。

 そこも小さな部屋だった。


 中には、白いクロスが掛けられた小さなテーブルと椅子が二脚だけ置かれている。


 テーブルの上には、白磁のティーカップと、これも白い皿の上に簡単な朝食が並べられていた。


 テーブルにつくと、少女がティーカップに紅茶ブラックティーを注いでくれる。

 自分の分も注ぎ終わると彼の前に座った。

 その所作(しょさ)の一つ一つに優雅さがある。


 初めの頃は、給仕に徹して、決して一緒に食べようとはしなかった彼女だが、連日の彼の説得に屈して、今では一緒に食事をしてくれていた。


 食事に会話はない。


 ふとした仕草(しぐさ)の合間に行われる目配せも、相槌(あいづち)も短い言葉のやり取りも――


 だが、ふたりの間の空間に、気まずさは微塵(みじん)もない。


 食事が終わると、少女は食器を片付けた。

 薄い間仕切まじきりの向こう側にある流し(シンク)で食器を洗う。

 これも、最初は彼も手伝うと言ったのだが、彼女に拒まれたのだった。


 こういった作業も含めて、()()()()()なのです、と。

 そう言われると、彼には返す言葉がない。



 数少ない食器を洗い終わった少女が食堂に戻ると、ふたりで連れ立って部屋を出た。


 先ほど歩いた廊下を戻り、途中の扉を開けて中に入る。


 そこは、それまでより少し大きな部屋だった。

 作りつけの書架しょかに、数多くの本が並べられ、机が二つ、少し離れて置かれている。

 書斎だ。


 少女は壁まで歩くと、天井から床まである厚く長いカーテンを左右に引いた。

 そこに現れたのは壁一面の大きなガラスだった。


 泡立つ海を見渡すことができる。


 一度、部屋を出た彼が、自室に置かれたメモを持って帰ってきた。

 テーブルについて、木製のペントレイの上の万年筆を手に取る。


 少女も机に座ると、ノートを開いて、執筆しつつある建国記の下書き(ドラフト)に眼を通し始めた。


 並んで座ったふたり。

 紙をめくる音と、ペンを走らせる音。

 窓から差し込む陽の光。


 それ以外、ここには何もない。


 それぞれの自室、食堂、書斎、そして廊下の反対の端から出る海に面したテラスだけが、キルスとカイネに与えられた世界のすべてだった。


 だが、ここでの生活に、カイネはまったく不満はない。


 彼が生きて、彼女のすぐそばで心臓を拍動はくどうさせ、呼吸をしている――それだけで充分だった。


 十数年の間、眠り続ける顔を見つめ、冷たい頬に手を触れるだけだったのだから。



 ただ、今の彼女は、常にキルスに負い目を感じて暮らしていた。


 彼女の思い込みが、暴走が、この世界を巻き込んで、ついには爆縮弾ばくしゅくだん――強烈な熱量とともに、二つのマイクロ・ブラックホールの螺旋運動によって生み出される次元の穴に、全てを吸い込ませる全滅兵器アナイアレイター――を稼働かどうさせてしまったのだ。


 彼女の人生は、アダムの死の真相を探ることから始まり、メイヒルズの死によって生まれた憎しみを晴らし、キルスを傷つけた者たちへ報復するという、猜疑心さいぎしんと復讐心にまみれたものだった。


 だが、その後、ドッホエーベで、キルスと共にいたカイネの前に現れたアルメデが、彼女の疑問すべてに答え、証拠を示した。

 彼女の疑い、怒りは的外れであった、と。


 アルメデは怒っていた。

 100年を越える彼女との関係の中で、初めて見せる()()()()()()怒りだった。

 初め、彼女は、自分が悪魔ジヤヴォール=ヌースクアム王アキオを傷つけたことに怒っているのだと思っていた。


 だが、そうではなかった。

 彼女は、あの戦闘で、ヌースクアム王の()()()()()()の肉体と、彼と300年を生きた自我を持つAIが消滅したことに怒っていたのだ。


 あの、火のように激しい性格ながら、100年女王の名に恥じず、決して感情のままに怒りを爆発させなかったアルメデの本当の怒りだ。

 カイネは甘んじて罰を受けることにした。


 アルメデが下した罰は、無期限の蟄居ちっきょだった。

 人と接触せずに生きる隠遁(いんとん)生活だ。


 それでいい、それがいい、彼女はそう思った。


 普通の人間なら、寿命があるため、無期限とは死ぬまで、という意味だ。

 だが、不老不死であるカイネとアルメデにとって、無期限とは永遠を意味する。


 それほど彼女の怒りが激しいということだろう。


 カイネは罰を受け入れた。

 生きるだけ生きて、生きるのに飽きれば死ねばいいのだ。

 高性能なナノ・マシンとはいえ、死に方はある。


 だが、そこで意外なことが起こった。

 キルスが、彼女と共に蟄居ちっきょ生活をすると言い出したのだ。

 スタン・ステファノとカイネ・マリアの暴走を止められなかった責任は自分にもあると主張して――

 意外なほど簡単に、あらかじめそれを予想していたとでもいうように、あっさりとアルメデはそれを許可した。


 カイネは反対した。

 自分の行動は、自分だけの責任だ。

 それ以上でも以下でもない。

 だが受け入れられなかった。


 それは駄目だ。

 長く共に働いて、彼女はキルスが()()()()()()()()()()()()を知っている。


 北極で、そしてドッホエーベで彼が掛けてくれた嬉しい言葉は、彼の優しさから出たものに過ぎない。


 そんな折り、拘置こうちされている彼女へ面会に来た彼が言ったのだ。


「君とは何年一緒に仕事をした。そんなに察しが悪いとは思わなかったな。いいか、よく聞くんだ、俺の望みは、これからを、君と一緒に生きることだ。たとえどんな場所であっても――」


 そして、カイネは、キルスと一緒に、この地で静かに暮らしている。


 シャトー・ディフで暮らすようになって最初に、ここで何をするか、という話をした時、キルスは、地球における水戦争(ウンディーネ・ウオー)以後の戦後史をまとめたい、と言った。


 ならば、わたしは、この世界に来てからのニューメア建国記を記します、とカイネが応え、今に至っているのだ。



 彼らに男女の関係はない。

 そうなってはいけない、とも言われてはいないが、実際、そうなってはいない。


 いつか、という気持ちは彼女にはある。 

 彼にもあればいいな、とも思う。


 だが、彼女は罪を(つぐな)う身だ。


 それに、巻き添えに近い状態で、傍にいてくれるキルスには申し訳ないが、この静かな生活が、思った以上に彼女には向いているようだった。


 意外なほど心地よいのだ。


 長く心にまとわりついていた()()から解放され、彼女は初めて、ゼロ(ヌル)であり、虚無ヴォイドとしての()()()ではなく、生まれたままのマドライネとしての生活を送っている――


 整った顔に、生真面目な表情を浮かべながらペンを走らせるキルスの横顔を見て、少女もペンを手に取った。


 科学で罪を起こした身であるから、ここで行う作業にも、なるべく電子機器を使うべきではないと、旧態依然の筆記具を使っているのだ。


 陽が高く上がるまで、ふたりとも黙ったまま作業を続けていた。

 部屋にはペンの音と、窓越しに聞こえる海鳴りの音だけが響いている。


 もう少ししたら、お茶をいれよう。


 そう考えて、なおも彼女はペンを走らせるのだった。

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