475.ウイスパーリング・シー、
海を渡って来る風が、砂の上に座ったアキオの頬を撫でていく。
僅かに含まれる潮の香りに、彼は何を思い出したのか遠い眼になる。
すぐ前には、アルメデの白いサンダルが脱ぎ捨てられていた。
その向こうには、夕陽を受けながら、素足になった少女が打ち寄せる波と戯れながらはしゃいでいる。
ここは、アドハード南端の萌黄海岸の砂浜だ。
アラント大陸南端に位置するニューメアのさらに南部にあるアドハードは、東をタルド山脈に接し、南を希望海に面している。
大陸中から集められた合金の壁に囲まれた都市は縦長の楕円形をしており、その南端が海に開いている恰好だ。
海にも魔獣がいるそうだが、浅瀬には姿を見せないので、気温の上がる季節には多くの人々が涼を求めて訪れるらしい。
今は、地球で言う秋に向かいつつあるので人影はない。
「アキオ!」
アルメデが手を振って彼の名を呼ぶ。
軽く手を上げてそれに応えながら、アキオは、短髪の美少女の姿を改めて見つめた。
逆光でわずかに影になるアルメデの上を、空中で静止しているかのように海辺に棲むガルの亜種、海鳥が飛んでいる。
夕陽を受けて輝く、寄せては返す波を追いかけ、また逃げながら明るく笑うアルメデの姿は、彼の心の深い部分に浸みこんでいく。
「海に行きましょう」
午前中いっぱいと午後にかけて、ふたりはメイディーネを治療、つまりサフランの資料に基づいて旧型ナノ・マシンの調整を行った。
意識を取り戻した妻と、涙を流しながら抱き合うペルタを見ながらアルメデがそう言ったのだった。
「この都市の一番の魅力は、街の端が海に面していることなの」
目を輝かせる少女にアキオが尋ねる。
「ふたりのドミニスと会わねばならないだろう」
「それは――」
アルメデは、ベッドから身体を起こした若い妻の手を取る辺境伯に眼を向けた。
ペルタは、アルメデの視線に気づくと、その場でふたりに跪く。
メイディーネもベッドから降りようとするのをアルメデが手で止めた。
「ヌースクアム王、そしてアルメデさま。我が妻のこと、どれほど感謝しても感謝し尽くせません。ですから、せめて、わたしにできることは、力の及ぶ限り、すべて行わせていただきます。ガラムおよびドルド・ドミニスは、必ず今夜、この屋敷に来させますので――」
「できますか?」
「アキオさまが、アドハードに来られたことは、既にふたりも知っておりましょう。ですから、わたしが呼べば、よもや否とは申しますまい」
「わかりました。それでは夜まで、わたしはわが王と萌黄海岸に出かけようと思いますが、よろしいですか」
「もちろんです。ジルベスタに送らせましょう」
朝に、門から屋敷まで乗せられた電磁モーター車にふたりで乗り込むと、ジルベスタが運転席に収まって運転を始めた。
辺境伯の屋敷から、海岸までは20キロほどある。
そのあいだ、アルメデはぴったりとアキオに密着して座り、彼の腕に頭を預け、指を絡めて手をつないでいた。
ぼんやりと、物思いにふけっているように見えながら、指話で激しくアキオに話しかけている。
昨夜のうちに、アドハードを仕切るふたりのドミニスについての対応は話し合ってあるので、それ以外の、いわゆる恋人同士の会話をしているのだ。
やがて車が停車した。
人気のない砂浜の手前で二人をおろすと、ジルベスタは車を方向転換させて去っていく。
彼らの帰りを待たないのは、邪魔をしないという配慮だろう。
「変わってないわね、ここは。いつ来ても美しい」
上空に少し雲があるため、陽の射さない海を見てアルメデはそうつぶやくと、アキオの腕を取って砂浜を歩き始めた。
緩やかに湾曲する砂浜を指さす。
「アキオ、この海岸は、昔、頼まれてわたしが整備して名付けたの。海の色は萌黄色で海岸の雰囲気がトルメア領の紺碧海岸に似てるから、萌黄海岸と」
言われてみると、確かに海の色が少し緑がかっている。
「さすがに、英国人の遊歩道は作らなかったけれど……」
「そうだな」
アキオがうなずく。
彼も紺碧海岸には行ったことがある。
だが、彼の知るその海岸は、ウンディーネ大戦による爆撃で穴だらけの濁った海辺だった。
アルメデが言っているのは、復興後の海岸のことだろう。
同じ地球からやって来ても、ふたりの間には200年の時差があるのだ。
その時、雲が切れて、傾きかけた太陽が姿を表した。
海がその表情を一変させるかのように煌めき始める。
「まあ」
アルメデは、アキオの腕から離れ、海に向かって駆け出した。
出かける時に履き替えたサンダルを脱ぎ捨てると、海に駆け込む。
声を上げて、子供のようにはしゃいだ。
アキオは、そんな少女を見ながら、どかっと砂浜に腰を下ろした。
そして今、彼は、光る海と輝きながら揺れるアルメデの髪、しなやかな手足が柔らかな生地のワンピースデザインの服から伸びる様、若々しく波と戯れる姿を眺めている。
やがて――
遊び疲れたのか、アルメデはアキオの許に戻ってきた。
彼の前に腰を下ろし、もたれる。
アキオは、足の間に挟むようにして彼女を受け止めた。
柔らかな髪を撫でると、少女は猫のように眼を細める。
潮騒の音だけが響く海岸で、ふたりは何も話さず、ただ赤みをましていく波を見ていた。
「ありがとう、アキオ」
不意にアルメデが言う。
「なぜ礼を」
「なんとなく」
「そうか」
その後、少女は再び黙り、波の音だけがあたりを支配する――と、アルメデが顔を上げて彼を見上げた。
短い金色の髪がさらさらと美しい音を立てる。
「ひとつだけお願いがあるの」
「いってくれ」
「ずっとわたしと一緒にいてね。もし、わたしが先に死んだら……」
「それはない」
言下に否定する彼に、少女は激しく首を振る。
「いいから聞いて!もし、わたしが死んだら、すぐに忘れて。そして、あなたが死ぬときは、わたしも一緒に連れて行って」
アキオは口を開きかけたが、少女の真剣そのものの眼差しを受けて口を閉じ、しばらくしてうなずいた。
「わかった」
やがて、ふたりの目の前で、見かけ上大きくなった太陽が水平線にゆっくりと沈んで行った。
夜の帳が降り始める。
「メデ」
「はい」
少女が、彼の胸に頭を預けながら答える。
「そろそろ帰ろうか」
「――」
返事をしないアルメデの頭を撫でた時、地鳴りのような不気味な音が辺りに響き始めた。
「アキオ!」
跳ね起きがアルメデが、同じく立った恋人を見上げる。
アキオはアーム・バンドを見た。
細かい電磁波パルスがいくつも発生している。
地震の前兆だ。
しかも、かなり大きい。
「まずいな」
「はい」
ドルド・ドミニスがアドハードで行っている発電産業の大部分は地熱発電なのだ。
「予想されるマグニチュードは8.5!タルド山が噴火するかもしれない」
少女もブレスレットに形を変えた情報装置にめをやって叫んだ。
噴火すれば、発電所も危ない。
規模にもよるが、都市に甚大な被害を及ぼすだろう。
アルメデがいいおわらないうちに、振動が激しくなり、都市の右側に聳え立つ山が小規模噴火を起こし始めた。
「アキオ!」
少女が彼を見る。
「まず、都心に帰ろう」
「わかりました」
「待つんだ」
走り出そうとするアルメデを止める。
アキオは、少し考えて、海に向かって命じた。
「アカラ、二輪を出せ」
「え!」
驚く少女の眼前に、彼の言葉に応えるように海から二輪車が現れる。