473.後朝
翌朝、陽が昇る前にアキオは目を覚ました。
アルメデは、彼に身体を預けたまま、安心しきった表情でまだ眠っている。
彼は、しっかりと首に回された腕をほどき、そっと少女をベッドの上に降ろした。
音を立てないように床に降り立つと、シャツとコートを身に着ける。
保護メガネを掛け、手袋をはめた。
窓を開けると壁に手を伸ばし、指先を壁にナノ接着させて外に出る。
地上5階の壁に張り付いたまま、そっと窓を閉めた。
そのまま、指と腕の力だけで身体を跳ね上げて屋根に乗る。
立ち上がると辺りを見回した。
来る時にも見たが、屋敷中がカーニバルの山車のように警報センサーの光で輝いている。
なかなかの警備体制だ。
だが、彼には意味がない。
アキオは、警報光線の隙間を狙ってジャンプした。
コートをフライング・モードにして、ほぼ無音で滑空する。
センサーをかいくぐって、広い庭を横切り、通りを隔てた建物に降り立った。
アサルトバッグを隠した空き部屋に寄ってから、屋根伝いに都市を走って、最後はフライング・モードで市外に出る。
アカラの話では、都市付近の街道沿いには、圧力センサーまでもが埋め込まれているそうなので、2キロほど飛行した後、森にそびえるひときわ高い樹の上に降り立った。
時刻を見ると五時過ぎだ。
夜明けまで、まだしばらく間がある。
アキオは、樹の幹にもたれて枝に腰をおろした。
目を閉じる。
風に乗って流れて来る樹々の匂いに古い記憶が蘇った。
密林地帯の戦闘では、こうやって樹上で突撃までの時間を潰したものだ。
やがて陽が昇り、陽光が顔に葉の影を落とし始めるとアキオは目を開けた。
アーム・バンドで確認すると、時刻は午前8時だった。
そろそろいいだろう。
アキオは、身軽に枝からジャンプすると数回転して地面に降り立った。
森を歩いて街道に出る。
すでに多くの荷馬車や人々が行きかう、隠しセンサーだらけの道を都市門へ向かって悠然と歩き出した。
黙々と歩く商人、賑やかに会話しながらそぞろ歩く旅人に交じって歩を進めると人々の視線を感じる。
黒い髪、黒い瞳、ヌースクアムの独特な意匠の黒いコートと、魔王の特徴を隠さない彼は、とにかく目立つのだ。
すぐに彼は、自分を監視する気配に気づいた。
それを完全に無視して、門へ向かって歩き続ける。
ほどなく、巨大な門が見えてきた。
門の前に、傭兵らしき男たちと良い身なりの男が立っている。
その横には、この世界に来て初めて目にする、黒塗りの四輪車が2台停められていた。
「ヌースクアム国王、アキオ・シュッツェ・ラミリス・モラミスさまとお見受けいたします」
近づく彼に、身なりの良い男が慇懃に尋ねた。
「そうだ」
「わたくしは、ペルタ辺境伯さまにお仕えする執事のジルベスタと申す者です。主の命であなたさまをお迎えに参りました」
「アルメデに会わせてもらえるのか」
彼の言葉に、一瞬、その場にいた男たちの目が険しくなる。
敬愛する前女王を呼び捨てにしたことが気に入らなかったらしい。
「そのように命じられております」
「わかった」
「では、どうぞこちらへ」
ジルベスタが車のドアを開けた。
アキオが乗り込むと、外からドアを閉める。
ゆっくりと車が動き始めた。
音から判断すると、超電導モーターではなく、ただの電磁モーター車のようだ。
大きな車体だ。
おそらく10人は乗れるであろう、向かい合わせのシートに、アキオ独りが座っている。
ジルベスタと男たちは、もう一台の車に乗っていた。
車はゲートを素通りし、目抜き通りを走っていく。
昼間、目にするアドハードの街は、夜とはまた違った顔を見せていた。
他国の街と違い、四輪車が多数走っている。
まだTAIによる自動走行にはなっていないらしく、交差点には、縦型の信号機が設置されていた。
だが、アキオの乗った車は、為政者の特権なのか、信号をすべて無視して走っていく。
ほどなく、昨夜泊まったペルタ辺境伯の屋敷が見えてきた。
門衛の手で開けられた巨大な鉄扉を通って敷地内に入っていく。
建物前のロータリーを回って、玄関で車は止まった。
先に車から降りたジルベスタがドアを開ける。
「どうぞ、こちらへ」
先に立って歩く執事の後にアキオが続いた。
案内された部屋に入り、椅子に座らされる。
外から扉が開き、身なりの良い大柄な男が入って来た。
「お初にお目にかかります。ニュースクアム王アキオさま。わたしはアドハードの管理官をさせていただいているペルタ辺境伯です」
彼は軽くうなずくと、いつもの言葉を言う。
「アキオでいい」
「いま、アルメデさまをお呼びしておりますので、しばらくお待ちください」
待つほどもなく、ドアが開き、アルメデが入って来た。
昨夜のラフな部屋着と違い、シンプルながら洗練されたデザインの薄手のドレスを着ている。
彼を見る少女の眼は少し尖っていた。
怒っているようだ。
実際、彼女は怒っていた。
朝、目を覚まして、おはようの挨拶を交わし、地球で言うところの後朝の別れを惜しんだあとアキオを送り出そうと思っていたのに、目覚めたら既に彼はいなくなっていたのだ。
アキオに寝顔を見られたのも恥ずかしかった。
前に一緒に寝た時は、彼女が先に目覚めて彼の顔を眺めていたのだ。
その後も、キィとふたりで何度か褥を共にしたが、ずっとアキオは昏睡状態であったため、彼に寝顔を見られたことはなかった。
それなのに、今朝は、なぜか目覚めることなく、彼に寝顔を見られてしまった。
記録によると、アキオがナノ・マシンを操作して彼女を眠らせたわけでないのは確かだ。
つまり、恥ずかしいことに、単純に彼女は寝過ごしてしまったのだ。
エヴァが死んでから、ずっと彼女は独りで眠り、使用人すら自室に入れたことはなかった。
今、生きているものの中で、彼女の寝顔を知っているのは、共にアキオと添い寝するキィだけだ。
今後、彼に見られる可能性を考え、前にそれとなく尋ねたところ、女神のように美しい寝顔をされておられます、と言ってくれたが、正直、最近まで神の概念を知らなかった彼女の言葉は当てにならないと思っている。
どんな恥ずかしい寝方をしていても、闇雲に褒めそうな気がするからだ。
だからアルメデは、寝顔を見た時のアキオの気持ちを想像して不安になる――
だが、彼女とて伊達に100年以上、二つの世界で女王をやってきたわけではない。
洗顔を済ませ、服を着替えると、いつものように感情を抑えることに成功した。
しかし、女使用人が部屋に運んだ食事をとって、手ずから入れたお茶を飲むと、その味と香りで、昨夜、アキオの温もりを感じながら膝の上で交互に飲んだことを思い出し、再び寂しくなる。
彼女を憧れの眼で見つめるメイドが心配そうな顔になるのを見て、無理に笑顔を見せた。
お茶を飲み終わると、アキオが朝遅く来ることを知っている――というより彼女がそう指定した――アルメデは、窓際の椅子に座って屋敷の書庫から借りた英雄叙事詩を読み始めた。
ヘフマンという著名な吟遊詩人の歌を聞き取ったものだ。
「アルメデさま、ヌースクアム王が来られました」
やがて、メイドが呼びに来た。
彼女は本を置くと立ち上がる。
「案内をお願いします」
部屋に入ると、中にアキオがいた。
彼の冷静な姿が目に入った途端、彼女の胸に腹立たしさが蘇る。