471.喫茶
ふと――
気配を感じて、アルメデは椅子から立ち上がった。
耳を欹ててみたものの、廊下を歩き回る護衛の足音しか聞こえない。
緩やかに首を左右に振った彼女は、手首に眼を向けた。
形の良い腕に巻かれたバンドには信号途絶の文字が表示されている。
短髪の首筋にひんやりとした夜風が優しく当たるのを感じ、開け放された窓まで歩く。
柔らかく、ゆったりとした部屋着が身体にまとわりつき、美しいシルエットを浮かび上がらせた。
窓辺の椅子に座って外を見る。
5階にある部屋からは、街の夜景が一望できた。
見下ろすと、巨大な首輪とハーネスをつけられた無魔法魔犬を従えた男たちが、ライトで明るく照らされた庭を歩き回っている。
ニューメアでは、魔法を使えない魔犬は、地球における番犬として扱われるのだ。
もちろん、ドーベルマンより遥かに凶暴な魔獣であるから、スイッチ一つで首輪から針が飛び出て、延髄を突き刺す安全装置が装着されている。
眼を転じて空を見上げた彼女は、3つの月が厚い雲に隠されているのを見た。
月なき夜空――
そう呟くと、言葉による連想で彼の姿が頭に浮かんだ。
物憂げな様子で夜空を仰ぐ彼女は、一枚の絵画のように美しい。
しばらく動かずにいたのち、彼女は椅子から離れると、壁に設えられたテーブルに近づいた。
小型サモワールで湯を沸かすと茶葉をポットに入れ、金属製のティーコージーをかぶせる。
内側に保温素材が張られたものだ。
規定時間待って、カップに茶を注ぐ。
香しい茶の匂いが部屋に広がった。
辺境伯からは、茶を飲むときは使用人を呼ぶように言われたのだが、人の手を煩わせるのが嫌なのと、手ずから入れた方が各段に美味なので、敢えて道具を部屋に置かせたのだ。
カップに口をつけて、彼女は考える。
ベルタ辺境伯の屋敷に来て3日になる。
実質的なアドハードの支配者である、ガラム・ドミニスとドルド・ドミニスとの時間調整がつかないということで、待機させられているが、それが言い訳にすぎないことを彼女は知っている。
一緒にやって来たルイスが、彼女に代わって精力的にドミニス一族に働きかけてくれているが、成果は芳しくないようだ。
最後にクルアハルカと連絡をとったのは、一昨日のことだった。
それ以降、太陽フレアによる電波障害で王都ともヌースクアムとも連絡がつかない。
ニューメアの主要な街同士は、地中を這わせた太いデータ・ケーブルでつながれているため、連絡をとれないこともないのだが、会話を盗聴されたくないので、緊急事態になるまで連絡は控えているのだった。
連絡――
アルメデが、花の顔に微笑みを浮かべる。
アキオに送ったメッセージを思い出したのだ。
あれは、ちょっと直情的過ぎたかしら。
でも、彼は、わたしたちのことを、よく見て、よく考えてくれてはいるけれど、些細でこまごまとした感情には気付かないことが多いから――
はっとした彼女が顔を上げた。
その視線の先で、風もないのに窓際のレースのカーテンが揺れている。
部屋を見回すと、窓から死角になる壁際に黒い影が立っていた。
「アキオ?」
その瞬間、部屋の灯りが消えた。
侵入者が壁のスイッチを操作したのだ。
凄い勢いで美少女が飛びついてきた。
彼の胸に体当たりするように飛び込む。
もちろん、アキオはしっかりとそれを受けとめた。
倒れはしない。
「アキオ、来てくれたのね」
「ああ」
クルアハルカに頼まれて、と言いかけた彼は、キィの言葉を思い出して言葉を選ぶ。
「君を助けにきた。危険があってはいけないからな」
助けるもなにも、封印の氷戦で見せた戦闘力から考えて、彼女ひとりで2個大隊、およそ1個連隊に匹敵する戦力があるのは確かだ。
どちらかといえば、危険なのはアドハードの反乱者の方だろう。
だが、そんなことは関係ないんだよ、主さま、と、彼はキィに釘を刺されてきたのだ。
どんな豪華な贈り物より、ただの短い言葉が宝物になるものなんだ、と。
「うれしい」
叫ぶように言うと、アルメデは、今度は彼の首に飛びついた。
頬を合わせる。
「ああ、アキオ、アキオ。本当にあなたなのね。今も、あなたのことを考えていたの」
「そうか」
彼はアルメデを床に降ろそうとするが、彼女は、いやいやをするように首を振る。
彼女がたまに見せる幼女モードだ。
「もう少し、このままで――だめ?」
「もちろん、いいさ」
アキオは、さらさらと揺れるアルメデの短い髪を手で押さえる。
しばらく後、アキオは、アルメデとテーブルについて茶を飲んでいた。
開け放っていた窓は閉めて、カーテンが引いてある。
灯りは消したままだ。
影で彼の侵入に気付かれないために。
部屋に入ってすぐにアーム・バンドで調べたが、盗聴、監視カメラなどは仕掛けられていなかった。
警戒厳重な部屋に、命がけの侵入者があるとは思わなかったのだろう。
アキオは、アドハードに来てからの経緯をアルメデに話す。
彼女は賢王だ。
情報を与えて、彼女が判断するのが良策だろう。
「わかったわ。あなたの考え通り、カイネが送り込んだ工作員のうち二人はドミニス側でしょうね。可愛そうに、理由は分からないけど、その子は斬り捨てられようとしているのね」
「メデ」
「わかっています。その子のことは任せて」
そう言いながら、彼女は彼の口にカップを運ぶ。
会話だけ聞いていると、向かい合って座ったふたりが、真面目な表情で今後の計画を立てているように思えるが、実際は、アルメデが、テーブルについたアキオの膝の上に横座りして首に手を回し、ひとつのティーカップで交互に茶を飲みつつ会話しているのだった。
新婚初日もかくや、といった密着度だ。
とても、ふたり合わせて400歳を優に越えるカップルには見えない。
その後、これからの行動について、真面目に彼らは話し合った。
明日の午前中に、アキオは、来たばかりの体で、堂々と都市門からアドハードに入ることにする。
「もともと、あなたに会ってみたいと、ドミニスたちがいってきたのでしょう?だったら、望みどおりにしてあげればいいわ」
一瞬、硬い眼になったアルメデは、すぐに蕩けるような顔になって、アキオの首に頭を押し付ける。
「あなたは、いつもどおりにしていてください」
「了解だ」
二時間後、アキオはアルメデと寝台の中にいた。
彼としては、一度、屋敷を出て、アサルトバッグを隠した近くの空き部屋に戻って夜を明かすつもりだったのだが、彼女が離さなかったのだ。
光量を絞ったベッドサイド・ランプの灯りの中で、アルメデが彼を抱きしめる。