468.空腹
暗く、狭い部屋だった。
しかも、この場所へ来るまでの建物の様子から想像はしていたが、中の設備も古い。
見た限り、アドハードの街は地球の22世紀程度には科学の進んだ生活様式だった。
だが、この部屋、そして建物は、それよりかなり以前の地球文化のようにみえる。
「早く入って」
先に中に入って、叱るように声を上げたミレーユにうなずいてアキオは扉をくぐった。
頭を打たないように背を屈める。
少女は、背を伸ばして天井から下がった物体に触れた。
ぱっと部屋が明るくなる。
光源を目にしたアキオは驚く。
この部屋の灯は、サンクトレイカのようなメナム石ではなく、王都の面光源ライトでもないタングステン球、いわゆる電球を使っているのだった。
黄色い光に照らされた部屋には、小さな机と椅子、寝台、その奥に炊事場があるだけだ。
見たところ、料理の熱源はニクロム線を利用した電気コンロらしい。
どちらも彼が初めて目にするものばかりだ。
電球が揺れるにつれ、アキオとミレーユの影も揺れる。
少女は口元に指を当て、少し考えて彼に言った。
「あなたは、寝台に座って。あたしはこっちに座るから」
そういって自分は小さな机の前の、小さな椅子に座る。
よく鍛えられ引き締まって小ぶりな彼女の尻がはみ出そうなくらい小さな椅子だ。
「独りか」
アキオが尋ねる。
「男と暮らしているように見えたの?」
真剣な顔でミレーユが言う。
「諜報員は3人と聞いた」
彼の言葉に少女は苦笑し、
「ああ、レルナとカデットは、ここにはいないわ。別なところにいるの」
「定期的に会っているのか」
「ええ」
ミレーユは答えた後、表情を暗くした。
「このところは連絡がないけど」
「ふたりに連絡を取ってくれるか」
アキオが頼んだ。
カイネが派遣した工作員の中で、クルアハルカが動向を把握しているのはミレーユだけだ。
彼女の話しぶりから考えても、潜入員の指導的立場は、残りのふたりのうちどちらかだろう。
だが、少女はつれなく答える。
「だめよ」
「そうか」
「居場所を知らないから」
きっぱりと言う。
「連絡はいつも向こうからくるの」
「緊急の時はどうする」
「あたしの側に緊急はないわ。強いから」
言ってから、ちょっと肩をすぼめる。
「あんたには負けたけど」
つまり、ミレーユは、なにか緊急事態が生じるのは、残りのふたりの側で、自分は独りでなんとかできる、と思っているのだ。
「女王が変わって、ドミニス一族が帰ってきた。なのに連絡がないのか」
「あんた、何がいいたいのよ。あたしが放っとかれてるとでもいいたいの」
少女が叫んで立ち上がる。
食物繊維が不足しているのか、そういう性質なのか、ミレーユはすぐに癇癪を起こすようだ。
アキオは、落ち着け、というように、ミレーユの頭を撫でた。
いつもの癖がでたのだ。
「子供扱いしないでよ」
それも彼女の癇に障ったようだ。
叫んだとたん、少女の腹が大きく鳴った。
不思議なほど、絶妙なタイミングでだ。
盛大な音を聞かれた恥ずかしさからか、それを聞いたことで、空腹を自覚したからか、崩れ落ちるように少女は椅子に座った。
アキオは、さっき触ったミレーユの体脂肪率が低かったことを思い出す。
「何か食べたほうがいい」
「ないわ」
遅滞なく少女が答える。
「いつもは店が用意するものを食べて帰るのよ」
「金は持っているのか」
「バカにしないで。あるわよ」
「では、何か食べに行こう」
「やめとく」
拗ねたように言う少女をアキオは見た。
「食べにいくほどないのよ、お金」
「そうか」
「いいわ。お水を飲むから。あしたの昼まで我慢すれば店で食べさせてもらえるもの」
アキオは口を開きかけたが、何も言わずに、ニューメアでは一般的なダッフルバッグに変形させたアサルトバッグから、レーションを取り出した。
少女に差し出す。
「なによ、これ」
「食べてくれ」
「いやよ」
なおもアキオが差し出したままでいると、
「ど、毒が入ってたらどうするの」
もっともだと思った彼は、レーションの袋を破り、バーの先を折ってそれを食べた。
残りをミレーユに差し出す。
しぶしぶ、といった感じで少女はレーションを受け取ると、鼻に近づけ匂いをかいだ。
ぴく、と鼻を動かすと、さっとバーをかじった。
ぱっと少女の大きな眼がさらに大きくなると、一気にバーが口の中に消えた。
アキオが次のバーを向いて少女の膝の上に置いてやると、それも一瞬でミレーユの口に消えてしまった。
アキオの目が細められる。
人間のこういった姿を目にするのは初めてではない。
というより、かつて地球上を転戦した先の難民キャンプで、常に目にした光景だった。
飢餓状態だ。
アキオは、バッグから、水筒を取り出した。
空気中の水蒸気から水を生み出す蒸気水筒だ。
蓋を捻って開け、別の容器から取り出したカプセルを落とし込む。
もう一度、蓋をして軽く振った。
その時、予想通り、少女がむせ始めた。
喉を押さえてもだえる。
アキオは手を伸ばして、少女の背をさすると、親指でボトルの蓋を回し外して差し出した。
苦しさから逃れたいのか、ミレーユは素直に水筒に口をつけた。
ひと口飲むと、むせながらも喉を鳴らして一息に飲み干した。
「な、何なのこれ。こんな美味しい水は飲んだことがない」
水筒に落とし込んだカプセルは、栄養素をバランスよく配合し、吸収をよくした緊急栄養剤だ。
味も、ヌースクアムの少女たちの監修を受けているため、間違いはないのだろう。
「も、もっと」
少女がねだる。
アキオは、ボトルに蓋をすると、上のボタンを押した。
ジーという羽虫のような音の後でシュッと圧縮音が鳴る。
蓋を開けると、八割ほど水が溜まっている。
再び、さっきとは違うカプセルを溶かしたアキオは、少女にボトルを差し出した、が――手を伸ばすミレーユの手を抑える。
「普段からあまり食べていないのか」
それには答えず、少女は必死にボトルに手を伸ばそうとする。
「慌てて食べると体調を崩す。ゆっくり飲むんだ。約束してくれ」
アキオは、傭兵時代、仲間の兵隊が与えた食料を慌てて食べて体調を崩し、死んでしまう子供たちを多く見てきた。
ミレーユが、こくこくとうなずく。
アキオは水筒を渡した。
それで落ち着いたのか、少女はゆっくりと新しいバーを食べ始める。
「今日は、訳があって朝と昼と食べてないの。その上で、あんなに激しく動いたから」
アキオはうなずいたが、それだけではないと思う。
ミレーユの栄養不足は慢性的なものだ。
若いから、容姿や動きにそれほど影響は出ていないが、今の生活を続けていれば、いずれ身体がもたなくなるだろう。
この都会で仕事をしているのに不思議なことだ。
おそらく何か理由がある。
「食べながらでいい。話を聞かせてくれないか」
アキオの言葉で、ほんの少し逡巡したのち、手にしたレーションと水筒を見つめながらミレーユが話し始めた。