466.酒場
路地から通りに出る前に、アキオはアーム・バンドに手を触れて、ナノ・コートを、あらかじめプリセットされたニューメアの服装に変化させた。
髪の色をメッシュ灰色に変える。
瞳は黒に近い茶色から明るい茶色にした。
アーム・バンドに表示させた地図を脳に刻んでから、薄暗い路地を出る。
通りに一歩踏み出すと、明るい光と種々雑多な色彩が彼を包み込んだ。
夜の帳が降りたばかりの街は、活気に満ちている。
けたたましい音楽と光の渦の中を人々が行きかっていた。
ニューメアの他の街は知らないが、地球科学の恩恵を受けたアドハードの大通りは、そのすべてが姦しく地球の歓楽街のようだった。
もっとも、それは彼の元いた25世紀の地球ではなく、記録で目にしたことがあるだけの21世紀のスタイルだったが……
記憶に沿って通りを歩く。
途中、何度か、肌を過度に露出させた女に声を掛けられたが、振り返らずに歩いた。
去り際に、なにか、男としての能力の無い奴、といった類の悪しざまな言葉を投げつけられたが無視する。
目抜き通りを折れ、細い通りを歩くと、薄暗い道の先に、ほのかな灯りに照らされた酒場が見えてきた。
目的の場所だ。
扉を開けて中に入る。
薄暗い店内は、渦巻く煙草の煙と、声を抑えた男女の会話に満ちていた。
ピアノらしき演奏も聞こえてくる。
アキオの眉がわずかに上がった。
まるで異世界だ。
ニューメアは地球の影響を受けすぎている。
彼は、カウンターに近づき、荷物を置くとスツールに腰をおろした。
「何にします」
カウンターの中の男に話しかけられ、ニューメアでは一般的なボンを頼む。
果実酒を蒸留してアルコール度数を上げたブランデーのような飲み物だ。
ガラス製のグラスに入った飲み物と交換に、コートのポケットから出した小さな銀の貨幣を置いた。
装備αの中には、各国の貨幣も用意してある。
事前に調べた情報によると、王都ではデジタル通貨が基本らしいが、アドハードなどの地方都市では、まだ貨幣と不換紙幣が使われているようだ。
金貨あるいは金地金と引き換え不可能な不換紙幣が使われているのは、金属をほとんど産出しないニューメアでは妥当な経済発展だった。
いきなりデジタル通貨になっている王都が異常なのだ。
背後から誰かが近づき、体をぶつけるように密着させながら横に座った。
濃厚な香水の匂いが漂う。
「あんた、初めての客だね」
カップから口を離して横を向くと、灰色の瞳、頬に散らしたそばかすに愛嬌がある女が彼を見つめていた。
「君は」
「あたしはマドロン、店の女さ。一杯おごっとくれよ」
アキオが、カウンターの男に合図すると、マドロンは彼と同じ飲み物を頼んだ。
飲み物が運ばれると、彼女はさらにアキオに密着しはじめた。
彼の肩を抱き、胸を撫で始める、が、体格差があるので思うようにはいかない。
「あんた、アドハードの人じゃないね」
「王都から来たんだ」
そういってアキオはボンを飲み干した。
そろそろ、用件に取り掛からなければならない。
彼の口に何かが差し込まれる。
細巻きの煙草だ。
すかさず、マドロンが旧式のオイルライターで火をつけた。
「ありがとう」
くわえ煙草のまま礼を言って、ひと口吸ったアキオの目が優しくなる。
煙草をくゆらすのは久しぶりだ。
世界が違っても、懐かしい味と香りがする。
マドロンは、そんな彼を見つめながら、いろいろな話をしてくる。
この10年で、驚くべき発展を遂げたアドハードのこと、信じられないほどきれいな前女王のこと、同じくらい美しい新女王のこと、果実畑が広がる故郷のこと――
話しながらマドロンは良く笑った。
その笑顔を見ながら、アキオは思う。
この、少女といってよい年齢の朴訥な女性は、酒場にはふさわしくない、と。
煙草の煙の中を泳ぎ、安い酒に酔い、青白い頬を化粧でごまかす生活ではなく、太陽の下、陽に焼けた顔で、果実畑で微笑む姿こそが似つかわしく思える。
もちろん、人それぞれの人生だ。
彼が口出しをすることではない。
煙草を灰皿で消すとアキオは言った。
「マドロン」
「なに?」
「すまないが、ミレーユを呼んでくれないか」
「え、あんた、あの子の客なの」
目に見えてがっかりする彼女の手に、あらかじめ用意しておいた、紙幣を巻いたものを握らせる。
「知り合いから言伝を頼まれている。頼む」
マドロンは、渡された紙幣を、ぎゅっと握ると笑顔になった。
「わかったよ。呼んでくる」
そう言って、もう一本、彼の唇に煙草を差し込んで火をつける。
残りの箱を彼の前に置いた。
「あんたって、本当に煙草がサマになるよ」
そういってスツールから滑り下りると、続けた。
「ミレーユはきれいだけど冷たい子だよ。がんばってね」
アキオは、苦笑すると酒をもう一杯頼んだ。
傭兵時代、自ら酒場に通ったことはないが、護衛任務で付き添った経験から、そこでの振る舞いはわかっている。
こういった場で、酒も飲まず、女とも話さずに独りカウンターにもたれていれば人目につく。
それは避けなければならない。
ふわ、と花の匂いが漂った。
滑らかな動作で、彼のとなりのスツールに女が座る。
風が起こり、紫煙が乱れた。
くわえ煙草のまま、アキオは横を向く。
煙の向こうに女がいた。
茶色の髪、茶色の目の女だ。
「ミレーユか」
アキオが尋ねる。
話すにつれて、煙草が揺れた。
それには答えず、逆に女が尋ねる。
「あんたは誰?あたしに何の用」
冷たい口調だ。
「何か飲むか」
「質問に答えて」
そういって彼の胸を小突く。
乱暴な女だ。
こんな調子で酒場の女が務まるのだろうか。
そう思いながら、アキオは率直な態度に出ることにした。
煙草を灰皿でもみ消すと、女の肩をつかんで抱き寄せる。
「何を――」
抵抗する女の口をふさぎ、耳元で言葉をささやいた。
素数からなる16桁の確認コードだ。
女の体が、びくりと震え、おとなしくなる。
「手を放すが、静かにできるか」
ミレーユがうなずく。
解放すると、小声で彼女が言う。
「裏で待ってて、しばらくしたら店を出るから」
アキオはうなずくと、人形でも置くように、ミレーユをスツールに乗せ、マドロンがおいていった煙草の箱をつかんでバッグを持つと、ゆっくり歩いて店を出た。
夜も更けたため、一年を通して温かいニューメアの気温も下がっている。
しばらく待ってもミレーユが出てこないので、彼はポケットから取り出した箱から煙草をくわえた。
その瞬間、襲われた。
ミレーユだ。
ナイフを持っている。
銃撃されるかもしれない、と予想はしていた。
そのために煙草をくわえて、わざと隙を見せたのだ。
ミレーユは慣れた手つきでナイフを突き出す。
アキオがそれを避ける。
彼女は、店の中で着ていた、白を基調にした露出の多い服の上に薄い上着を羽織っていた。
自信たっぷりに身構えると、彼にナイフの刃を向ける。
「一応、なぜ殺そうとするか聞いていいか」
アキオの言葉に、ミレーユは表情を変えずに答える。
「あやしい奴は排除するのが長生きする秘訣さ」
もっともだ、と思いながらも、面倒くさくなったアキオは、女を無力化することにした。
無造作に近づくと、突き出されるナイフを指で弾き飛ばし、落ちてくるところを足で蹴った。
鋭い金属音と共に、ナイフは壁に根本まで埋まる。
だが、ミレーユはそれを最後まで見ていなかった。
靴の先から飛び出た針で彼を蹴ろうとする。
アキオは彼女の軸足を払った。
宙に浮きながらも、彼女は太腿につけたホルスターから小さなデリンジャー・タイプの単発銃を取り出し、彼に向ける。
それをつかんで奪うと、猫のように体をひねって足から降りたミレーユは、今度は髪に隠した長針で目を狙ってきた。
アキオは、バック・ステップして針を避ける。
その拍子に煙草が折れた。
短くなった煙草をくわえたアキオの口元が緩む。
デルフィ以上に、びっくり箱のように、色々な殺人手法が飛び出てくる女だ。
面白い。
だが、あまり遊んでもいられなかった。
アキオは女の背後に回ると、掌で頭に振動を与えて脳を軽く揺らしてやった。
地面に崩れ落ちた女を見下ろして、口元の折れた煙草に気がつく。
ポケットから箱を取り出して、残りをしまった。
せっかくマドロンがくれたものだ。
捨てるわけにはいかない。
だが、煙草は匂いが残るから、これからの行動に支障をきたす。
禁煙をすべきだろう。
そう考えたアキオは、煙草の箱をポケットに入れると、気を失ったミレーユを武装解除した。