465.都市
黒い髪、黒いコートの背を向け、長い影を地面に映しながらアキオが去って行く。
その後ろ姿を見送りながら、クルアハルカはつぶやいた。
「キィやアルメデさまから聞いていた通りの方ですね。明らかに普通の人ではありません。ですが……」
「心配ですか」
ラートリが尋ねる。
「そうですね。たったひとりで、ニューメアの科学武装に鎧われた地域に向かわれるのですから」
「もうひとつの、あなたの依頼は達成されるでしょうか」
「あなたはどう思います」
尋ねてから彼女はすぐに、
「いえ、返事は必要ありません」
そう言い直した。
先日、アルメデから、政務、外交、その他すべてをラートリに頼り過ぎだと注意されたばかりなのだ。
「まず、自分で考えること――」
小さくつぶやいた新女王は、ラートリに言う。
「アルメデさまから伺ったあの方の半生、ドッホエーベでの戦い、にわかには信じることができないほどの強さですが、あのキィとアルメデさまが、ご自分より遥かに強いといわれるのですから、信じるべきでしょうね。何より――」
クルアハルカは、遠ざかるアキオの背中を見て言う。
「戦いになるかもしれない場へ赴くのに、あの泰然とした態度。まるで、ちょっと散歩にでかけるような感じではありませんか」
「顔を見せに行く、といっておられましたから、戦闘するつもりではないのかもしれませんね」
「お帰りなさい、ボス」
駒鳥号に戻ったアキオは、声をかけてくるアカラに命じた。
「アドハードへ向け発進だ。地図を出してくれ」
司令室に入ると、シーリング・スクリーンを見上げる。
「ETAは」
アカラの返答を聞いてアキオは考える。
およそ一時間後だ。
その頃には日も暮れているだろう。
クルアハルカは、アルメデが嫌うので、暗殺も扇動も行わないと言ったが、アドハードには、一年ほど前から潜入工作員が数名送り込まれている。
ドミニス一族が、何かの火種になるかもしれないと、カイネが考えたのだろう。
与えられた情報によると、かつては農村程度の集落であったアドハードは、この十年ばかりで、人口2万人の街、地球語に準拠するニューメの呼び方で言う都市になっているらしい。
取り得る選択肢は二つある。
堂々と姿を表し、都市のゲートを通って入るか、密かに潜入するか、だ。
少し考えた彼は、アカラに目標地点の座標を伝えた。
「かなり都市の手前になりますが」
「走るさ」
「わかりました。それでは、席についてください」
そこでアキオは、部屋に入ってすぐに気づいていた疑問を口にする。
「これは何だ」
通常、少女たち全員が座るシート配列になっている司令室、シジマのいう艦橋に、今は、中央付近に一つだけ、大きく豪華な椅子が設置されているのだ。
他に椅子はない。
「もちろん、艦長席です。かねてより、ヌースクアム王たるボスが、他の方々と同じ並びの椅子に座られるのは如何かと思っていましたので」
「問題ない」
「ですが――」
アカラは語気を強め、
「今はおひとりですから。どうぞお掛けください」
AIに促され、アキオは椅子に近づいた。
高い背もたれの肘付き椅子で、背と座面は革製に見える。
なぜか右の肘掛けの方が大きい。
配色は、黒と黒みがかった赤だ。
アキオが腰かける。
四本足の椅子だが、座面と背もたれが回転するようになっていた。
「掛け心地はいかがですか」
「悪くない」
「ゴシック様式をベースに人間工学を加味して設計してあります。座面と背もたれのナノ皮革の色は、朱殷です」
「朱殷」
「時間が経った血の色です」
アキオは苦笑する。
確かにその色だ。
「君が発案者か」
「ラピィさまです」
アキオはうなずいた。
地球趣味の彼女らしい。
「右のひじ掛けに触れてみてください」
言われた通りにすると、彼の右前方の空中にスクリーンが浮かび上がった。
「ホログラム・スクリーンです。実験的に実装しました。データ閲覧にお使いください」
「了解だ」
「問題が発生しました」
しばらくするとアカラが告げた。
ホロ・スクリーンに、ハルカから渡されたデータを映していたアキオが顔を上げる。
「何だ」
「アドハードの周りにかなり厳重な監視網が敷かれています」
「ソリトン波を使うレーダーか」
「そこまで高性能ではありませんが、駒鳥号のステルス迷彩は見破るでしょう」
「地表と空中のどちらが手薄だ」
「空中です。アラント大陸で空を飛ぶのは鳥とニューメアの航空機だけですので」
「俺がフライング・モードになって装備αと共に飛行した際の発見確率は」
「0.05です」
「監視網にかかるまでどのくらいだ」
「あと3分です。限界地点から都市までの距離は15キロあります」
「余裕をとって、早めに出る」
「わかりました」
アサルトバッグに入れた装備αを担いで、出口へ向かいながらアキオが言う。
「この機に地上車はあるか」
「はい」
「二輪と四輪があります。それもとっておきのものが」
「用意しておいてくれ」
「了解しました」
「では、出る」
壁に触れると一瞬で脱出口が消え、凄まじい風が吹き付けてきた。
アキオは、用意していた保護メガネをつける。
強風に逆らって飛び出した。
コートをフライング・モードにして飛行する。
雲の多い夜で、月は隠されているが、保護メガネの暗視機能によって眼下を飛び去る森林が良く見える。
しばらく飛ぶと、前方に光の渦のようなものが見えてきた。
監視用のセンサー・ライトだ。
可視、不可視の様々な波長の光がセンサーとして使われている。
暗視能力のある彼が、わざわざ多機能保護メガネをつけているのはこのためだ。
アキオは、ナノ・コートを巧みに操って、光の隙間を抜けて行った。
やがて、眼前に、ひときわ巨大な光の円筒が見えて来る。
都市の周りの防御壁だ。
小型機すら通さない鉄壁の監視体制だが、高度200メートルを飛ぶ人間サイズのステルス物体は想定外だったらしく、発見されることなく彼はアドハード内に入ることに成功した。
人気のない路地に降り立つ。
まずは、3か月前から連絡がとれなくなっている潜入工作員を訪ねることにした彼は、ゆっくりとビルの隙間の暗闇に足を踏み出した。