448.命名
「うまくやるんだよ、オプティカ」
展望室へ消える二人を見ながら、シミュラが呟く。
「でも、本当に、あの名前でよかったのですか。どうもアキオは名づけに関して――いい加減な気がします」
ヴァイユの言葉に、ミストラも苦笑を浮かべながら続ける。
「わたしもヴァイユと同じ考えです」
「ええ、でも、大叔母さまがそれでよいと仰られたのですから」
ふたりに挟まれるように椅子に座ったミストラが困ったように微笑んだ。
彼女たちが、アキオの命名に関して熱くなるのは、ふたりが、アキオに名をもらっていないためだと知っているからだ。
ヨスルと彼女たち以外の少女たちは、皆、アキオから命名されている。
それは、初めから名が無かったり、過去を清算するためであるから、その必要のないふたりは名前を変えていない。
だからこそ、アキオが新しく名前をつけると、ふたりは心中穏やかではいられないのだ。
スぺクトラや、ギデオンだってグリムと名付けてもらったのだから。
「でも、発想の経緯と地球語における意味はともかく、音の響きは素敵だと思いますよ」
「確かに、愛称のティカというのはよい響きだけど」
「そうね。耳当たりの良さから考えたら素敵な名前かもしない。でも、それでもわたしは――」
「わたしの、ユスラという名前も、アキオはその場で名づけましたよ」
「あなたの名前は、由来さえ素敵ではないですか。アキオの生まれ育った地球の、ユスラウメの花に似た髪の色、でしょう」
基本、ヌースクアムの少女たちは、王族であったアルメデ、シミュラ、ユスラ、ピアノには、それなりの接し方をする。
しかし、この三人に限っては、もとから友人であったので、その言動は率直だ。
「うるさいのう。要は、おぬしたちも、アキオに名前をつけて欲しいのじゃろう」
シートから立ち上がったシミュラが二人に近づきながら言う。
「え、そ、そんなことは」
「確かに、おぬしたちは、我らと違って、家もあり、親も健在じゃ。だから、アキオもあえて名づけはしないじゃろうが」
釣り気味の眼で少女たちを見る。
「頼めば必ず名をくれるはずじゃ。なんなら、わたしから頼んでやろう。なに、オプティカと同じように、あやつと我らの間だけで使えばよいのじゃ」
「シミュラさま」
ふたりの美少女が魔女の手をつかむ。
涙ぐんでいるようだ。
「すまぬな。今まで気がつかなんだ。あやつがおればとっくに気がついて手を打っておっただろう」
「そうですね。お節介でよく気の付くあの方なら――」
ユスラが言いかけた言葉を飲み込む。
少女たち全員が認める、アキオの真の相棒、守護天使、そして恋人のミーナはもういないのだ。
「ああ、これは」
扉をくぐって、部屋に足を踏み入れたオプティカが声を上げた。
展望室の名の通り、細長い部屋の一面が透明な強化ガラスになっていて、外部の景色が一望できる。
もはや、陽もすっかり落ちてはいるが、目の前には、3つの月あかりの下、照明塔に照らされた川の中で、リトーが黙々と作業する様子が見えていた。
ガラスから2メートルほど離れて、展望用シートが一列に並んでいる。
ピン、部屋に優しい音が響いた。
「駒鳥号、発進します。席におつきください」
実際は、着座など不要だ。
よほどの急発進をしない限り、搭乗者はよろめきもしない。
かつて、地球で17歳のアルメデをジーナで迎えにいった時、彼女たちは発着にほとんど気づかなかったとミーナは言っていた。
そのミーナの技術を踏襲しているアカラが操る機体だ。
ゆっくりと、機体が上昇し始める。
それと共に、ガラスの外の巨人が下に遠ざかり、小さくなって行った。
「座ろう」
アキオは言って先にシートに座る。
オプティカが横に座った。
「大丈夫か」
アキオが尋ねて、アームバンドを見る。
「あ、ああ、大丈夫。それどころか、すごく気分がいいよ――あの、それで、ア、アキオ、いまは二人だけだから、さっきの姿に戻して欲しい」
彼がアーム・バンドに触れると、彼女の豊かな髪が、一瞬で桜色に変わった。
オプティカが、己が手を見る。
さっきまでの、骨ばった手が、指が、艶やかな弾力を持って張りつめた皮膚に変わっていた。
顔に手をやると、深く刻まれた皺が無くなっている。
「分かっていたけど、すごいね」
立ちあがったアキオが、壁まで歩き、指を触れると、小さく音がして壁面の一部が大きな鏡になった。
かつて、キィを驚かせたナノ被膜の鏡だ。
「これは、なんて大きな鏡なんだい」
オプティカも驚いている。
この世界には高位貴族以外、大きな鏡を持たないからだ。
もちろん、王族であった彼女は、この程度の大きさの鏡を見たことがあるだろう。
「姿を確認すればいい」
彼女は、ゆっくりと鏡の前に歩き、じっとその中を覗き込んだ。
頬を涙が伝う。
「なにか問題が」
アキオの問いに激しく頭を振った。
「違う、違うよ」
アキオはうなずいた。
よほど、若返ったのが嬉しいのだろう。
「あんたに、若いままのあたしをあげられるのが嬉しいんだ」
そういって、彼の胸に飛び込んで来る。
きつく抱きしめた。
アキオは、顎の下で揺れる桜色の髪を撫でる。
「そうか」
その時、再び電子音が鳴った。
「オプティカさまの着替えをご用意いたしました」
アカラの声が響いて、壁の一部が開くと衣服が現われた。
白色のソフレーヌだ。
「あ」
彼女は、アキオから身体を離すと、胸を隠すスカーフに手をやった。
「そういえば、破れてたね」
近づいて服を手に取る。
「着替えればいい」
アキオは彼女に背を向けた。
「そうするよ」
オプティカはそう言って、さわさわと優しい衣擦れの音を立てて服を着替え始めた。
「いいよ」
彼女の声で彼が振り向くと、すぐ近くにオプティカが立っていた。
だが、彼女は服を着ていなかった。
下着だけは身に着けていたが、上半身は裸で胸を腕で隠している。
「アキオ」
そういって、彼女は胸から腕をどけた。
「見ておくれ」
そういって彼に一歩近づく。
彼の手を取って、胸に当てた。
「シミュラさまの記憶で見たよ。あんた、あたしに自分の心臓をくれたんだね。ここで――」
そういって、しっかりと彼の手を胸に押し付ける。
「あんたの心臓とあたしの心臓が混ざって動いている、そうだね」
「そうだ」
アキオは、手をどけるとオプティカの胸を見た。
じっと見る。
「そ、そんなに見られると恥ずかしいね。変な形じゃないかい」
アキオは、彼女の胸の中心が、大きく星型に、ほんの少し灰色になっているのを見た。
彼の開発したPS対応型ナノ・マシンはまだ完全ではない。
PS細胞を使って補完した肉体は、もとの肌色よりほんの少し暗色になるようだ。
まあ、それも一時のことで、彼の計算では、しっかしとした食事をとれば、2日ほどで、本来の細胞に置換されるはずだった。
だから、あえてシッケルには注意を与えなかった。
彼なら、数日の間、腕の色が違っても気にしないだろう。
あの美しいマーランガも。
「大丈夫だ」
オプティカが再び彼に抱きついた。
「ア、アキオ。聞いていいかい」
「ああ」
「あたしは、綺麗かな」
実のところ、彼女は、美形の多い歴代サンクトレイカ王室の中でも、至宝と呼ばれるほどの美貌の持ち主だった。
だから、少女の頃から老いるまで、自分を見る男の視線はよく知っている。
彼女を見る異性の視線は、父以外すべて男の眼だった。
欲望の色が混じった眼だ。
月猫亭で美貌を隠す化粧をした時でさえ、そうだった。
この数年、やっとその眼から逃れられたのだ。
彼女は穏やかに過ごせていた。
あの乱暴な傭兵がしたように老人扱いされても、かえってそれが嬉しかった。
もっと早く老いることができればよかったのに、心の底からそう思っていた。
だけど、アルト、アキオと出会って、彼女は初めて自分の若さと美しさが消えてしまったことを悔やんだのだ。
こんな日が来るとは思わなかった。
美しさと王族の身分は、常に彼女にとって悲劇を生み出す原因だったからだ。
だから、どういう魔法かはわからないが、怪我をした後に若返ったことを知った時は混乱した。
また、あの面倒な生活が始まるという不安と、アキオに、とうに無くしたと思っていた若い自分を捧げられるという喜びの中で揺れ動いて――そして、彼女は彼に告げたのだ。
また、老人に戻して欲しい、と。
あなたの前でだけ、若くいたいと。
彼は望みをかなえてくれた。
だけど、二人きりになって若返ったいま、彼の様子をみると、彼女は急に不安になってしまった。
アキオの眼差しが、かつて、若い自分を見た男たちの眼と、まったく違ったからだ。
この人は、男としてわたしを見ていない。
ひょっとして、自分は、とんでもない誤解をしていたのではないだろうか。
国を傾ける美少女ともてはやされ、逃亡する先々でも、自分をめぐって男たちが騒動を起こし続けたため、自分は美しいと思っていたが、実はそれほどではなかったのかもしれない。
少なくとも、彼の美の基準に届いていないのではないだろうか。
ふと、彼女を大叔母と呼ぶ少女を思い出す。
美しく、知的で可憐な娘だ。
それ以外にも、奇妙な男言葉を使う小柄な少女、金髪、金色の瞳の豪勢な美少女、氷のように怜悧な美貌を持つ灰色の髪紅い眼の娘……
みな、王族にもあまりいないほど美しい少女たちだ。
自分程度の人間を美しいと思って、彼に捧げようとするのはおこがましいことではないのか。
だから、彼女はあえて直截な言葉で彼に聞いたのだ。
だが、アキオはなかなか答えない。
答えられないのか、答えにくい質問なのか。
自分が傷つくことを慮って躊躇しているのだろうか。
だったら――
「オプティカ」
アキオの言葉で彼女の思考は中断された。
「心配するな。2日ほどで傷口の色はなくなる」
「え」
予想していたのと、まるで違う言葉に彼女は声を上げた。
「元通り、きれいな胸になる。心配するな」
彼女の想い人は、そういって彼女の桜色の頭をなでる。
「ア、アキオ、あんたって人は」
彼女は吹き出した。
そこで、彼も彼女の質問の意図に気づいたようだ。
少し間をおいて言う。
「君はきれいだ。いや、美しい――はずだ」
「はず?」
「実は、よくわからない。だが、君の立ち姿が美しいのはわかる」
それで、彼女は思い出した。
アルドスの魔女と共有した記憶を。
アキオは、人を、女を美醜で判断しない。
彼が見るのは……
だから彼女は質問を変えた。
彼の眼を見上げながら言う。
「アキオ、あたしは、見かけじゃなく美しいかい」
彼は、少し考えると、両手で彼女の頬を挟んで上から目を覗き込んだ。
これまでのミーナの言葉、少女たちとの会話の記憶を総動員して言葉を紡ぐ。
「君の瞳を初めて見た時、その深さに目が離せなくなった。その中の暗さとそれを圧して輝く明るさに――君の精神は美しい」
言い終わったあとで、自分で考えて口にしながら、長すぎる言葉に困ったような顔になるアキオを見上げ、美少女は涙をひと粒零した。
それが、彼にとって最大限の賞賛であることを、シミュラの記憶を見た彼女は知っていたからだ。
「ありがとう。うれしいよ」
彼女は、もう一度彼の背に手を回し、しっかりと抱きしめた。
むき出しの腕、胸、腹、太腿にコートが当たって少し痛い。
裸のアキオに抱き着いたら、どんな感じだろうか、きっと暖かく、気持ち良いに違いない。
そう思って、自分の想像に頬を染めた彼女は、アキオの胸に顔を押し当て、表情をみられないようにする。