447.光学
「う、腕が伸びるんだ」
デルフィが、二度と離さない、とばかりに伸びた腕でアキオに絡みつくシミュラの姿をみて驚きの声を上げる。
「む、恐ろしいか」
黒の魔女は、頬を胸に押し当てながら、目だけを少女に向ける。
「い、いや、あなたが元アルドスの魔女だということと、アルト、アキオの盟友であることはわかっている」
「ふむ」
シミュラは素早く腕をほどいて元にもどすと、もう一度アキオを軽く抱きしめて、顔をすりすりしてから、デルフィに近づいた。
「うーん。シミュラさまって、根はアレなのに、ところどころ男心をくすぐることするよね。度量が広いのに、かわいい女って感じの」
「聞こえておるぞ、シジマ。アレとはなんじゃ」
振り返らずに彼女が言う。
「も、もちろん、女王さまらしい気品と風格のことだよ」
「わかっておるの――さて、おぬし、デルフィと申したな」
「は、はい」
アルドスの魔女が何を言うのか、と緊張した面持ちで少女が身構える。
シミュラは、肩幅に足を開くと、少女を指さした。
「まず第一に、わたしはこやつの盟友ではない。妻――」
少女たちの視線に気づいて、
「のような、まあ、婚約者というやつじゃ。第二に、これよりおぬしを王都まで送るが、アキオに25エクル(5メートル)以内に近づいてはならん」
「え、なぜ」
目を丸くしたデルフィが声を上げる。
そこに、部隊内で見せていた毅然とした態度はない。
「おぬしの目には邪な光がある。隙あらばアキオを篭絡せんとする光が。なにより、あやつの態度に、憎からず思っておるフシが見え隠れする。おぬしは、どことなくあやつの好みの線上にあるからの」
腕を組んで続ける。
「いかん、いかんぞ。もう、あやつの周りに余分な席はないのじゃ。ただでさえ、共に寝る時間が減っておるのに、これ以上はいかん。そういう状況であるのに、ユスラが王都まで送る約束などしおってな。とにかくわかったな、約束せよ」
そこまで言って、良い声で呵呵と笑う。
「と、いうのは冗談じゃが、節度を守って接するのだぞ。今回はすでに、ひとり増えることが決まっておるからな」
しかし、シミュラの言葉は少女に届いていなかった。
「あ、え、わたしが、ア、アルト、アキオの好み……」
少女は、シミュラの言葉の一点に反応して思考停止している。
「シミュラさま、なにか、逆効果のような気がするのですが」
「あなたが指摘されるまで、デルフィさまにはそのような考えはなかったのではないかと」
ヴァイユとミストラが残念な顔を向ける。
「シミュラさまって、案外、懐が狭いよね。せっかく褒めたのに台無しだよ」
「な、何をいう。元はといえば、節操なく出先で女を拾ってくるこやつが悪いのじゃ」
「シャトラ、いえシミュラさま」
マフェットが声を掛けた。
「どうした」
「わたしは、あなた方の邪魔になるようなことは――」
「丁寧な言葉などいらん。いつも通りに話せ」
「ではお言葉に甘えるよ。あたしは、みんなの邪魔になることはしない。だから心配しなくてもいいよ。あたしには店があるしね」
「それで良いのか」
「もちろんさ」
言いきってマフェットが黙った。
静かな夜道、照明塔の下で、リトーが作業する架橋の音だけが響く。
シミュラは、マフェットを見つめると、アキオを振り返った。
「では、わが王よ、このひかえ目で自制的な娘に名前をつけてやってはくれぬか」
「い、いや、あたしは――」
「それは良い考えです。大叔母さま、ぜひつけてもらいましょう」
「いい考えだね。おすすめするよ」
アキオに名をもらった少女たちが口々に勧める。
「ユーフラシアは、すでに捨てた名、マフェットは――詳しいことは教えぬが、いわくつきの名でな、あまりこやつは気に入っておらんのだ。それゆえ密かに新しい名前を欲しておる。ならばおぬしが名付けてやらねばなるまい。こやつもわたしの記憶から、おぬしが多くの娘に名をつけたことを知っているはずじゃ」
「あ、いや、あたしは、そんな」
「で、あるから、ぜひ新しい名を――」
「名前、か」
アキオがマフェットを見つめる。
これ以上、考えなしに名付けられる犠牲者を増やさないほうが良い、と止めるはずのミーナは、すでにいない。
「オプティック、いやオプティカ」
わずかなタイム・ラグの後にアキオが言った。
「オプティカ……」
マフェットが何度も口の中でくりかえす。
「光学ですか。そう名付けた理由は?」
ユスラが尋ねる。
「もとの名前がアスフェリックだからな」
「ああ」
少女たちがうなずいた。
アスフェルからアスフェリック・レンズを連想し、それから光学を思いついたのだろう。
「ありがとう、変わってるけど、いい名前だ」
「うむ」
シミュラが大きくうなずいて、
「愛称は、ティカにするがよい」
その様子を微笑んで見ていたユスラが、皆に告げた。
「そろそろ王都へ帰りましょう」
川の中で作業を続けるリトーに目をやって、
「木橋の製作も順調に進んでいます」
アキオに向けて報告する。
巨人は、川から離れた森林地帯から木を伐採し、橋の土台を作っているところだった、
「この調子だと、予定通り明日の朝には橋が完成するはずです」
「わかった」
「これから、ここに駒鳥号を呼びます」
「白鳥号ではなかったんだな」
「あれは大きすぎます。それに、格納庫には、まだスペクトラがいますので」
アキオがうなずく。
「ピアノ」
ユスラに名を呼ばれて、少女がアーム・バンドを操作した。
空から、先端部が黒、機首と尾翼が橙色の、駒鳥に似た配色の機体が降りて来る。
当然、VTOLだ。
駒鳥と呼ぶにはスマートな機影が、河岸の開けた空間に静かに着陸した。
機体下部の一部分が分かれて下に降りて来る。
「荷物用昇降機か」
アキオの呟きを耳にしたピアノが説明する。
「通常は舷梯を使いますが、今回は、意識を失った少女がいますので」
彼がうなずいた。
駒鳥号の製作には設計段階から彼女が関わって、名前を決めたのもピアノだと聞いたのを思い出し、言う。
「美しい機体だ」
「はい!」
ヌースクアムの少女たちと話している時でさえ、冴えた美貌のために冷たい印象を与えることのある少女が、蕩けるような優しい笑顔を見せる。
それを見て、なぜか、アキオはユーラシア北部戦線のツェルマットで見た、朝陽を浴びて揺れるエーデルワイスを思い出した。
ヌースクアムの少女たちとデルフィ、そしてアキオとオプティカ、サフランに付き添われ、少女を抱いたケイブが昇降版に近づく。
全員が乗ると昇降版が動き出した。
ゆっくりと上昇し、静止しする。
そこは司令室の隣にある貨物室だった。
「こちらへ」
ピアノについて司令室に入る。
「あなたは、その席へ」
少女はデルフィに向けて、扇形に並んだシートの一つを指した。
「あなたとその子は医療室へ」
ユスラが、ケイブに対して扉の一つを指さして言う。
サフランを見て、
「お願いできます?」
「もちろんです」
フードの少女がうなずく。
「あ、アキオ」
彼がオプティカと並んでシートの一つに座ろうとするのをシミュラが止める。
「おぬしは、ティカとともに舷側展望室へ行け」
アキオはうなずくと、彼女の手を取って司令室を横切り、展望室の扉を開けた。